【petit企画の館】/蝶としゃぼん玉[153]
2016 09/03 06:09
ハァモニィベル

*

【詩人の本棚に寄贈します】
 (今回は5冊一度に)

~ 〈読む〉ということを考えてみるために ~



 ◇ 丸谷才一 「読書感想文の害について」(『遊び時間2』所収)


----------------------------
本来批評であるべきものなのに、(ムリなことをさせられる生徒たちは可哀想だ)と
「読書感想文」という胡散臭い対象に、まっとうな切り込みを入れた名短文である。

文藝批評といふものが可能なのは、批評家が対象である一冊の本を読んだだけではなく
これまでずいぶんたくさんの本を読んでゐて、そのおかげで分析と比較の能力を身につけ
てゐるからである。〔…〕
 それなのに今、一人の子供は、・・・

ただ一冊読んだだけで、一冊の読後感を求められているのだ、と丸谷は言う。

・・・もうお座なりのことしか書く気力がない。能力もない。あとに残るのはただ、嘘をついたといふ
いやな感じだけであらう。

多くの夏休みの読書感想文は、このエッセイを対象にして書いたらよいだろうと思う。


#



 ◇ ロラン・バルト 「作者の死」(『物語の構造分析』 所収)

----------------------------
読者が、本文をいちど読んでしまうと、もはやテクストは読者の頭のなかにあるものであって、
作者のものであった本文は、「還元不可能な複数性」のなかへ消失してしまう。すると、つまり
〈こう読むのが正しい〉とは言えないのだ、という地平が開けてくる。
※これは、どう読もうと勝手だ、というのとは、ニュアンスが違う。むしろ独創的な読みが要求される
と私には思える。

★ロラン・バルトは、微成長を続けた人なので、一冊だけというわけにはいかない。そこで、
 ◇ 『ロラン・バルト著作集』(全10巻)みすず書房
といきたいが、全部精読することもない。
(『テクストの快楽』などは、むしろ読解してはいけない味わう本であろう。)
※バルトについては、機会があれば又取り上げてみたい。

#


 ◇ 『行為としての読書』 W・イーザー

----------------------------
言わば(本文と読者とのキャッチボール)の解析に関心を置いた「読者反応論」の古典である。
読むときの本文の拘束力を認め、多様な読みも、「容認可能な複数性」の範囲で考える。
本文が読者を巻き込んでいく「不確定性」、「空所」という相互作用の広がる契機や、
「解釈共同体」(これはフィッシュの用語)という閉塞的規制などが興味深い。

#


 ◇ 『声と現象』 J・デリダ /林 好雄 訳 (ちくま学芸文庫)

----------------------------
この記事の冒頭で、丸谷才一の言葉を引いたが、
一冊読んだだけで、一冊の読後感に浸って終われる人と、
ある一行を読んだとき、多くのことを想起できる人の、二項対立はありそうだ。
だが、どちらであっても【よい感性の器】がなくては、面白く読めない気もする。
例えば、ここで論じられている ◇ フッサールの 『論理学研究』 を知っていれば多分有利であろう。
しかし、それには、当時、数学では非ユークリッド幾何学が登場し、心理学でも人間の認識がさほど
当てにならないことが論議され、「知」というものが揺らぎはじめていたという時代背景や、
そもそも、「フッサールの現象学」について知らないと(それにはカントを知らないと)面白さは半減しかねない。
眼の前の対象の正体は〔 〕=括弧でくくり(Xと置く)、あくまでそれは、現前する現象として捉えるという、
その視点(現象学的還元)の手法は、そのままテクスト論の発想としてすぐピンとくるであろうし、
バルトを読むのに、ニーチェを知っていればピンとくるのと同じように、
「脱構築」もまた、プラトンの対話篇(ソクラテスの対話法)を知っていればスンナリと愉しめる。




 ◇ 「読書」 西田幾多郎 (青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/3505_53075.html

----------------------------
難解な文章というイメージの西田幾多郎であるが、
好感のもてる率直な読書論は、スッキリしていて今でもべつに古くなってはいない。


私の読書というのは覗いて見るということかも知れない。そういう意味では、可なり多くの書物を覗いて見た、また今でも覗くといってよいかも知れない。本当に読んだという書物は極く僅ずかなものであろう。
 〔・・・〕
私はヘーゲルをはじめて読んだのは二十頃であろう、〔・・・〕はじめてアリストテレスの『形而上学』を読んだのは、三十過ぎの時であったかと思う。〔・・・〕それはとても分らぬものであった。然るに五十近くになって、俄かにアリストテレスが自分に生きて来たように思われ、アリストテレスから多大の影響を受けた。私は思う、書物を読むということは、自分の思想がそこまで行かねばならない。一脈相通ずるに至れば、暗夜に火を打つが如く、一時に全体が明らかとなる。


>書物を読むということは、自分の思想がそこまで行かねばならない。
>一脈相通ずるに至れば、暗夜に火を打つが如く、

書き手に匹敵するくらいの器を、読み手の方も持っていなくては、そこから注がれるものを
どうして受け止め切れるだろうか?その意味で、まさに至言である。



**

 〈読む力〉とは何か?

 高校時代、国語が苦手な理系の友人から、どうすれば出来るようになるのか、と相談されたことがあった。その友人は京都大学に進んだ優等生であったが、現代文(現国)が苦手で、いつもその成績は学年で二位だった。担当の国語教師がかなり難しい問題を出す人で、一枚目に授業でやった問題(通常の定期テスト)=50点、二枚目は入試問題=50点、それを合わせて百点満点、という形式で毎回出題してきた。問題の量が二倍あって、尚且つ、多くの生徒が残り時間が少ない状態で難問に挑まねばならなかった。なので、学年二位でも、いつも78点くらいだった彼は、つねに95点以上取っていた私に、何か秘訣でもあるのか、と訊いてみたくなったのであろう。

 私に言わせれば、それは簡単なことであった。
 国語の試験ができない人は、 「つぎの、文を読んで・・・答えよ」 と出題された課題文を読んで、そして答えているから、出来ないのである。国語の試験が(飛び抜けて)出来る人間というのは、課題文は当然、まず読むが、そしたら、それを出題者がどう読んだかのか、を質問を手がかりにして読み取っているのだ。
 だから、出題者が誤読していたら、その誤読に合わせて、解答してやらねばならない。だから、国語の試験というのは、実に馬鹿らしいなと思いながら、私は満点に近い成績を取っていたのだ。

 つまり、国語の試験は、①変な所でちょん切られた本文と、②必ずしも優秀でない出題者の頭のなかのテクストと、読み取らねばならない対象が2つあるのであって、滑稽なことに重点はむしろ②の方なのである。

 〈読む力〉とは、いったい何なのであろうか?

スレッドへ