2016 09/09 11:57
ハァモニィベル
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『トムは真夜中の庭で』 フィリパ・ピアス/高杉一郎訳 (岩波書店)
『ある日どこかで』 リチャード・マシスン/尾之上浩司訳(創元推理文庫)
『はてしない物語』 ミヒャエル・エンデ/上田 真而子,佐藤 真理子 訳(岩波書店)
『盗まれた記憶の博物館』 ラルフ・イーザウ/酒寄進一訳(あすなろ書房)
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記憶との出会い
我々は、必ず立ち止まり振り返るときがある。そして、そんなとき大抵と言っていい程、〈失った〉ということを発見するのだ。我々が決して何処かに向かって歩いていたのではなくて、ただ、その時々を歩き続けていたということを、そのときの少年の擦り剥いた膝小僧を、――愛おしく懐かしむ時にも、である。
読書感想文などタイムスリップでもしなければ、書くことはあり得ない。そうだ、あの頃。夏休みは確か、一番長く、一ヶ月以上あった筈だ。30日もあるのに、一冊しか本を読まないなんて、今の私ならば、まずあり得ないだろう。だから、いろいろある中から四冊まとめて書くことにしよう。だが、当時の私は、「読書感想文」の対象に相応しい(とされるような)本は、一冊も読まない方が当たり前だったけれど。
しかし、これから取り上げる4冊の本を、子どもの頃に読んでいたとしても、その味わいが理解できたかわからない。児童文学は不思議なもので、子どもにむけて書かれていながら、大人の心に深く刺さる哀切なノスタルジアを誘う芸術なのだから。
◆ 『トムは真夜中の庭で』 フィリパ・ピアス/高杉一郎訳 (岩波書店)
夏休みだというのに、弟の麻疹のせいで、叔母さん宅に預けられたトムは、そこである日、大時計が13時を打ったのを聴く。そして、昼間は存在しない不可思議な夜の〈庭園〉で、ハティという謎の少女に出逢った。不思議なことに、彼女は毎晩逢う度に、少しづつ大人になっていく。最後、トムがようやく再会を果たした時、知った答えとは。
ハティ 「かわらないものなんて、なにひとつないものね。わたしたちの思い出のほかには。」
◆ 『ある日どこかで』 リチャード・マシスン/尾之上浩司訳(創元推理文庫)
1971年現在。脳腫瘍のため余命半年と宣告されたリチャード(脚本家)が、とある旅先のホテルで、色褪せた一枚のポートレートに恋をする。もう死んでいる女優エリーズの1896年当時の姿がそこにあった。1896年。その年のホテルの宿泊名簿を調べた彼は、なんと自分のサインが残されているのを発見する。思い焦がれる彼は、とうとうタイムスリップし、そして彼女と逢い、みごとに・・・、映画も含めて、熱烈なファンを持つSFラブストーリーの古典である。
現実と幻想が交錯するほろ苦さ、この交錯の比率が大人と子どもでは違う。その両者が等比なまま自己を保つことができる者は少ないのかも知れない。
◆ 『はてしない物語』 ミヒャエル・エンデ/上田 真而子,佐藤 真理子 訳(岩波書店)
物語を作るのが得意な少年バスチアンは、学校では、友人からも、教師からもダメ人間扱いであった。事実である歴史なら良いが、虚構は蔑視されるのだ。現実世界と想像世界の両者が併存してこそ生は安定するのに、そのバランスが崩れて世界は危機に晒されることになる。空想世界である「ファンタージエン」に行ける者には、そこから戻り、現実世界に生命を吹き込む使命が課されている。しかし、ファンタージエンに行ったきり戻ってこない現実逃避者は、ファンタージエンで落ちぶれ果てることになる。ラスト、古書店の主がバスチアンに言う。
決してファンタージエンに行けない人間もいる。行くことができても向こうに行ったきりになってしまう人間もいる。それからファンタージエンへ行って、戻ってくるという人間も何人かはいる。君のように。そういう人間こそが両方の世界を健やかにするのだ。
◆ 『盗まれた記憶の博物館』 ラルフ・イーザウ/酒寄進一訳(あすなろ書房)
双子の姉弟 ジェシカとオリバーの元にある日、警察がやって来る。ベルリンの博物館から、貴重な古代石像が盗まれ、その容疑者は、そこで夜警をしていた、姉弟の父親トーマスだというのだ。ところが、姉弟は、たった一人の肉親であるという父親が存在する記憶自体をそもそも喪失していた。父親は、そして父親の記憶は、いったい何処へ消えたのか?
姉弟は、屋根裏にあった父の日記を見つける。そこには、父がかつて著名な考古学者であったことや、記憶の王国クワシニア(そこは現実世界から抹消された記憶の墓場)の存在が書かれていた。。
芸術的才能があるがちょっと頼りない弟オリバーは、父を探しにクワシニアへ乗り込み、ITに長けたしっかり者の姉ジェシカは、弟の記憶をも失いつつ、現実世界で、学芸員ミリアムの協力を得て王国の謎の解明に挑む。
多くの古典が読まれずに埋もれているのは惜しい限りだ。
記憶は勝手に消えてしまうのではない、という。対象に何の意味も見いだせないとき、それは姿を消してしまうらしい。ならば、もし記憶の本棚があると仮定したら、そこに集められた一冊一冊の本に、何らかの意味が見いだせなければ、その本棚には一冊も無いのと同じである。
裏返すなら、
記憶とは、きっと懐かしいほどの愛なのであろう。
*(END)