詩ヌマデアイ詩テ[137]
2016 03/17 04:31
澤あづさ

▼るるりらさんへ。

ただいま帰りました(´∀`*)←超絶遅い。

***

▼カイトへ。

>俺は批評しないと投稿させませんよってときに、無理矢理な批評をやって、どうも不毛な気持ちに陥った。あれか。あれをやめればいいんだな。

それはもちろんやめるんだ。詩はほとんどが抒情、つまり作者の魂とか分身とかわが子とかに等しい代物。そんなのうかつに罵倒したら怒られるに決まってる。

それがなぜネット詩壇で平然とおこなわれているかと言えば、
「詩には読者が詩人しかいない。」
そして話が下記に戻る。
http://po-m.com/forum/thres.php?did=316267&did2=116
※現フォの安価ってどう書くんだっけ。

ところで例の蛹だけど、田中恭平氏も「とけてしまえ!」ヨシと述べてるにゃ。
http://bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=8690#20160315_258_8690r
つまり下記の最後の話は妥当だった。安心して参考せよ。
http://bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=8690#20160314_228_8690r

***

ベルさんへ。

>主義には功罪があり罪と罰があるでしょうが、澤さんは自覚してますからね。

テクスト至上主義がどれほどの罪であるかは、「世界中にパルマコンの毒を撒いた」と名高い『プラトンのパルマケイアー』で知れ渡ってますからね。。。わたしもあれは(『パイドロス』を読んでいたので)最初はぜんっぜん理解できなかった。いまでも読解はできてない。

>例えば、バナナがあるときに、~

テクスト至上主義はあくまで「テクスト」つまり文芸批評の姿勢なので、食品の批評に用いることはできません。またたとえば「そのバナナの歴史」に関するテクストを論ずるとなると、そういうものには「情報の真贋を見定める批評」のほうが、はるかに需要があるでしょうから、テクスト至上主義の出る幕はないでしょうね。

身の程(できることとできないこと)のわきまえも、テクスト至上主義者には重要だと思っています。できないことを無理やりやるのが論外なのは、どんな分野のどんな主義でお同じですが。

>みにくいアヒルの子が混ざってる時に、それが白鳥になるまでは気づかないということになってしまう恐れ

そうですね、テクスト至上主義は「作品」への関心ですから、アヒルであれ白鳥であれ「作者」は領分外です。わたし自身、未熟な作者には、関心がまったくありません。ほかに関心を持つべき書き手(主にはすでに歴史に残っている偉人)が山ほどいるので、余裕がないというのが正直なところ。

※また「そもそも人材養成は、批評家の負うべき役割ではない。」という考えもあるだろうと思います。作り手と癒着した批評家なんて、いかにも信用に値しません。対象への思い入れがあれば、その真贋を見極めるなんて冷酷なことは、人間感情としてできないのがふつうでしょうから。

それでわたしは、プロ詩では技術の話しかしない(つまり書き手同士として交流する)と決めていましたけど。詩作がうまいこと行き自信がついて文学極道を訪問したあかつきには、菊西夕座氏のようなレッサーを目指したいなと思っています。文学極道へ評価を仰ぎに来ているほどの人に、プロ詩レベルの話なんて、ほんと失礼だと思いますからね。
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