古書肆 新月堂[15]
2005 04/24 02:37
佐々宝砂

萩原朔太郎『純情小曲集』より愛憐詩篇

「夜汽車」

有明のうすらあかりは
硝子戸に指のあとつめたく
ほの白みゆく山の端は
みづがねのごとくにしめやかなれども
まだ旅びとのねむりさめやらねば
つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。
あまたるき"にす"のにほひも
そこはかとなきはまきたばこの煙さへ
夜汽車にてあれたる舌には佗しきを
いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
まだ山科(やましな)は過ぎずや
空気まくらの口金をゆるめて
そつと息をぬいてみる女ごころ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓より外をながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きてゐたるをだまきの花。

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「こころ」

こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

こころはまた夕闇の園生(そのふ)のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん。

こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。

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「女よ」

うすくれなゐにくちびるはいろどられ
粉おしろいのにほひは襟脚に白くつめたし。
女よ
そのごむのごとき乳房をもて
あまりに強くわが胸を圧するなかれ
また魚のごときゆびさきもて
あまりに狡猾にわが背中をばくすぐるなかれ
女よ
ああそのかぐはしき吐息もて
あまりにちかくわが顔をみつむるなかれ
女よ
そのたはむれをやめよ
いつもかくするゆゑに
女よ 汝はかなし。

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「桜」

桜のしたに人あまたつどひ居ぬ
なにをして遊ぶならむ。
われも桜の木の下に立ちてみたれども
わがこころはつめたくして
花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。
いとほしや
いま春の日のまひるどき
あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。

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「旅上」

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。

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「金魚」

金魚のうろこは赤けれども
その目のいろのさびしさ。
さくらの花はさきてほころべども
かくばかり
なげきの淵(ふち)に身をなげすてたる我の悲しさ。

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「静物」

静物のこころは怒り
そのうはべは哀しむ
この器物(うつは)の白き瞳(め)にうつる
窓ぎはのみどりはつめたし。

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「涙」

ああはや心をもつぱらにし
われならぬ人をしたひし時は過ぎゆけり
さはさりながらこの日また心悲しく
わが涙せきあへぬはいかなる恋にかあるらむ
つゆばかり人を憂しと思ふにあらねども
かくありてしきものの上に涙こぼれしをいかにすべき
ああげに今こそわが身を思ふなれ
涙は人のためならで
我のみをいとほしと思ふばかりに嘆くなり。

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「蟻地獄」

ありぢごくは蟻をとらへんとて
おとし穴の底にひそみかくれぬ
ありぢごくの貪欲(たんらん)の瞳(ひとみ)に
かげろふはちらりちらりと燃えてあさましや。
ほろほろと砂のくづれ落つるひびきに
ありぢごくはおどろきて隠れ家をはしりいづれば
なにかしらねどうす紅く長きものが走りて居たりき。
ありぢごくの黒い手脚に
かんかんと日の照りつける夏の日のまつぴるま
あるかなきかの虫けらの落す涙は
草の葉のうへに光りて消えゆけり。
あとかたもなく消えゆけり。

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「利根川のほとり」

きのふまた身を投げんと思ひて
利根川のほとりをさまよひしが
木の流れはやくして
わがなげきせきとむるすべもなければ
おめおめと生きながらへて
今日もまた河原に来り石投げてあそびくらしつ。
きのふけふ
ある甲斐もなきわが身をばかくばかりいとしと思ふうれしさ
たれかは殺すとするものぞ
抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ。

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「浜辺」

若ければその瞳(ひとみ)も悲しげに
ひとりはなれて砂丘を降りてゆく
傾斜をすべるわが足の指に
くづれし砂はしんしんと落ちきたる。
なにゆゑの若さぞや
この身の影に咲きいづる時無草(ときなしぐさ)もうちふるへ
若き日の嘆きは貝殻もてすくふよしもなし。
ひるすぎて空はさあをにすみわたり
海はなみだにしめりたり
しめりたる浪のうちかへす
かの遠き渚に光るはなにの魚ならむ。
若ければひとり浜辺にうち出でて
音(ね)もたてず洋紙を切りてもてあそぶ
このやるせなき日のたはむれに
かもめどり涯なき地平をすぎ行けり。

**

「緑陰」

朝の冷し肉は皿につめたく
"せりい"はさかづきのふちにちちと鳴けり
夏ふかき"えにしだ"の葉影にかくれ
あづまやの藤椅子(といす)によりて二人なにをかたらむ。
さんさんとふきあげの水はこぼれちり
さふらんは追風(つゐふう)にしてにほひなじみぬ。
よきひとの側(かた)へにありてなにをかたらむ
すずろにもわれは思ふ"ゑねちや"の"かあにばる"を
かくもやさしき君がひとみに
海こえて燕雀(えんじやく)のかげもうつらでやは。
もとより我等のかたらひは
いとうすきびいどろの玉をなづるがごとし
この白き舗石(しきいし)をぬらしつつ
みどり葉のそよげる影をみつめゐれば
君やわれや
さびしくもふたりの涙はながれ出でにけり。

**

「再会」

皿にはをどる肉さかな
春夏すぎて
きみが手に銀の"ふおうく"はおもからむ。
ああ秋ふかみ
なめいしにこほろぎ鳴き
ええてるは玻璃(はり)をやぶれど
再会のくちづけかたく凍りて
ふんすゐはみ空のすみにかすかなり。
みよあめつちにみづがねながれ
しめやかに皿はすべりて
み手にやさしく腕輪ははづされしが
真珠ちりこぼれ
ともしび風にぬれて
このにほふ舗石(しきいし)はしろがねのうれひにめざめむ。

** 

「地上」

地上にありて
愛するものの伸長する日なり。
かの深空にあるも
しづかに解けてなごみ
燐光は樹上にかすかなり。
いま遥かなる傾斜にもたれ
愛物どもの上にしも
わが輝やく手を伸べなんとす
うち見れば低き地上につらなり
はてしなく耕地ぞひるがへる。
そこはかと愛するものは伸長し
ばんぶつは一所にあつまりて
わが指さすところを凝視せり。
あはれかかる日のありさまをも
太陽は高き真空にありておだやかに観望す。

**

「花鳥」

花鳥(はなとり)の日はきたり
日はめぐりゆき
都に木の芽ついばめり。
わが心のみ光りいで
しづかに水脈(みを)をかきわけて
いまぞ岸辺に魚を釣る。
川浪にふかく手をひたし
そのうるほひをもてしたしめば
かくもやさしくいだかれて
少女子どもはあるものか。
ああうらうらともえいでて
都にわれのかしまだつ
遠見にうかぶ花鳥のけしきさへ。

**

「初夏の印象」

昆虫の血のながれしみ
ものみな精液をつくすにより
この地上はあかるくして
女の白き指よりして
金貨はわが手にすべり落つ。
時しも五月のはじめつかた。
幼樹は街路に泳ぎいで
ぴよぴよと芽生は萌えづるぞ。
みよ風景はいみじくながれきたり
青空にくつきりと浮びあがりて
ひとびとのかげをしんにあきらかに映像す。

**

「洋銀の皿」

しげる草むらをたづねつつ
なにをほしさに呼ばへるわれぞ
ゆくゆく葉うらにささくれて
指も真紅にぬれぬれぬ。
なほもひねもすはしりゆく
草むらふかく忘れつる
洋銀の皿をたづね行く。
わが哀しみにくるめける
ももいろうすき日のしたに
白く光りて涙ぐむ
洋銀の皿をたづねゆく
草むら深く忘れつる
洋銀の皿はいづこにありや。

**

「月光と海月(くらげ)」

月光の中を泳ぎいで
むらがるくらげを捉へんとす
手はからだをはなれてのびゆき
しきりに遠きにさしのべらる
もぐさにまつはり
月光の木にひたりて
わが身は玻璃のたぐひとなりはてしか
つめたくして透きとほるもの流れてやまざるに
たましひは凍えんとし
ふかみにしづみ
溺るるごとくなりて祈りあぐ。

かしこにここにむらがり
さ青にふるへつつ
くらげは月光のなかを泳ぎいづ。


#岩波文庫「萩原朔太郎詩集」
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