01/14 12:04
佐々宝砂
ほんと、ここ、開くのが遅くなってきましたね。などとおずおずと顔を出す私は佐々宝砂です。お騒がせしております。
「国」という話が出るときに思うのは、私にとって「国」とか「母国」というものは「日本語」そのもの……厳密に言うならば、私が使うのは少し崩れた東京弁に遠州弁が混ざったような言語ですが、ともあれ日本語……なのだろうということです。日本神話でもなく、もちろん日の丸でも君が代でもなく。日本という国家がどういうことになっても、「最後の授業」みたいなことになって日本語を禁じられても、私は日本語を使うでしょう。日本語を口にできなくても、たぶん日本語で考える。思考方法まで変えるのは困難です。「日本語を使う人間」というのが私の基本アイデンティティです。それを自覚しながら、過去の日本が他国にしでかしてきたことを思うとき、私は背中が寒くなるような気がします。
奥主さんがおっしゃるように「国=日本国」という意識自体、近代に生まれたものだと私も思いますが、「日本語」というものも、「日本国」と同様に、近代の産物かもしれません。井上ひさしの小説なんかを読むとそう思います。たとえば仲程さんが使う沖縄のことば。旅先の青森で耳にした老婆のことば。私にとっては英語以上にわかりにくいそうした言葉は、私が使う日本語とは全く異なる響きをもっている。少なくとも、「日本の歴史・伝統・文化の継承」として国が認めたがるような日本語ではない気がする。でも私はそうした主流でない日本語が好きです。私は静岡の生まれでほぼ標準語に近い言語を操りますが、できればもっと方言のきつい地区に生まれて標準語と○○語のバイリンガルになりたかった、せめて関西弁くらい操れるようになりたかった、とへんな夢をみたりします。