2011 09/14 03:43
mizu K
チェーホフ『かき』(『カシタンカ・ねむい 他7篇』 神西清・訳 岩波文庫 2008.に所収)
「柿」と思っていたら、「カキ(牡蠣)」の話。
カキのおいしい食べ方といえば、と思いめぐらしてみると、だいたいカキフライとカキ鍋あたりがまずうかんできます。フライがとにかく、おいしい。鍋にしても、やっぱりおいしい。口に入れたときのプリッとした弾力だとか、その後のじゅわじゅわーと広がるジューシーかつクリーミーかつ濃厚な味とか、それでいてちりっときて少し舌にざらつく苦みがこれまたよくて、口の中をやけどしそうになりつつも、はふはふと、ついつい箸が止まらず食べ過ぎる、ということも。ああよだれが。
もしくは七輪であぶって、醤油をちょっとだけたらーっとたらして、そのまま殻からずずずっとすすって、つるんとした喉ごしを楽しむのも、これまたよいものです。カキカレーもおいしそう。秋から冬にかけて、これからの季節が旬となるので楽しみなものです。ああよだれが。
けれども、チェーホフの『かき』に登場する少年(8歳)は、カキのことを、まずその姿かたちはおろか、食べられることすらまったく知らないでいました。ところが、カキが海のいきもので、食べられるということを聞いただけで、そこからひたすらカキについて想像をめぐらすのです。ここの描写がすごいのなんの。ある事情のためにとにかく空腹で、意識ももうろうとしつつある状態の少年。カキについての諸々の情報、色、味や食感、におい、調理方法など想像は、実際のカキを知っている読者からすればまったくのデタラメであるのに、正直けっこうグロテスクなところもあるのに、妙にこちらの食欲をそそられるのです。そしてカキを食べたい!腹いっぱい食べたい!という少年のとにかく貪欲な食欲がこちらにばしばし伝わってきます。ああよだれが。
空腹でたまらないとき、人はどんな顔をしているのでしょうか。
食欲というのは生命維持のために必須の欲求でありながら、その行為にはどこか背反した感情がつきまとうような気がします。食べたい、おいしいものを食べたい、食べ尽くしたい、その欲望、その飢餓感。けれどもおなかがくちくなってしまうと、ああ満足した、幸せだ、という充ちたりた状態とともに、ああ満足してしまった、という、ものがなしさにもおそわれるのです。みちてしまった。くちくなってしまった。食べ尽くしてしまった、もう食べられない。せつない。
人はその生の間に何度、おなかがすいたと泣くのだろう、それが空腹からくるとわからずいらいらするのだろう、飢えに欲するのだろう、満腹を感じるのだろう、幸福に満たされるのだろう、胸が苦しくなるのだろう、嘔吐して後悔するのだろう。そして『かき』の少年はそれらの、彼がこれから経験するであろうことのとば口に、このとき立ったのではないだろうかと、そんなことを思いました。