2010 05/18 01:25
クローバー
「私」と「君」が同一説は、悪くはないかなと思ったんだけれど。
>早足で通り過ぎていく
は「君(という感情)」が「私(の中)」を早足で通り過ぎていく
だと、思ったのです。
一回目の早足は、愛されないという悲しみの感情がやってきたことを
二回目は、うーん、少し良くなった感じで、喜び(?)が通り抜けたことを。
まぁ、ちょっと無理があるような気がしますね。
>早足で通り過ぎていく
は(「私」と「君」が同一であろうと、別であろうと)どちらにしてもネックですね。
ベットにいて性交を行うなら、通り過ぎちゃまずいんですよね。
鵜飼さんの先の読み、だと、性交の部分については、性交を求めている様子で、問題はないんですけれど。
>経血と精液がベットの上で混ざり合って
>喜びが今産まれようとしている
実際に起きていることとして、書いていないなら「今」って表現するのはどうなんだろう?と思ってしまいます。
それと、最初の2行のような話をしていて、通り過ぎる、という表現は不自然な気がしてしまうのです。
言う、という表現をしていますが、そんな風な様子に見える、ということなのかなぁ。
最終の2行の
>耳鳴りにハミングしながら
>君は早足に通り過ぎていく
というのも、耳鳴りって他人に起きていても、わからないですよね?
なのに「君」に起きていることを「私(語り手)」がさらっと言ってしまう
そこの所に、なんとなく、違和感を感じてしまいます。
詩の表現は、あんまり厳密に考えるとつまらなくなってしまうけれど(苦笑)
作者はどういう意図があって「通り過ぎ」させたんだろう?うーん。
>すべてが悲しみに定着して
>月の周期に生と死が同期する
の所は、納得しました、そういうことなんだと思います。
(この作品を、作者が、わざわざ、生贄合評に載せたこと、
と、ある程度、物語の形を取っていることから、
何か伝えたいことがある のだろうと思うんだけれど
僕には、やっぱり、よくわからないなぁ。)