2007 09/21 00:38
月見里司
向き合ってみました。
相変わらずとんでもない読みで申し訳ありませんが。
まずは内容から。記号で区切られていたので、それ毎にまとめてみました。
・1
初連、夕日は捕らえられ、「私たち」は解決を諦め、閉じた時間の輪の中から
外側を巻き込もうとしている。夜へ。
二連目、「何かとても嫌なもの」を認めない小人は、まさに私たちそのものであり、
ミサイルを美しいと称え、祈る。これ以上強くなりませんようにと。
弱いまま生きていられますように、と。
えりくすま、えりくすま、夜であることを選り、
くすみのように影を落とした、あるいは既に人ではない、「魔」としての。
・2
一連目、このミサイルはやはり標的を持って飛行していることが示される。
ブラウン管を通して、しかし私たちは標的にあまり関心を示していない。
二連、始まりと終わりが重なる。ミサイルはただ飛行しているのだ。
打ち上げられることも着弾することもなく、
始まることと終わることが等号で結ばれるように飛行する。弔われた結果たちが、
ミサイルの存在を僅かに隠す(が、当然それを終わらせることはできない)。
三連、かつて私たちであった小人が祈っている。荘厳さはそこにはなく、
ただ茫洋とした「美しさ」に満たされている、神話ではなく御伽噺。
るーまてっく、るーまてっく、室内(room)から、
光を(illuminate)見る(そこにlunaはないというのに)、かつて技術(tech)であった者へ。
・3
最初の連で「潰す者は幸いなり」が登場する。このあたりから、「私たち」と「小人」、
そして「ミサイル」の存在の相互の壁が崩れていく。
二連。作中で唯一独白の形式を取っている。ミサイルは「焼き」、
そして輪郭をかたどって行く。
三連目。私たちはそろって落下していくが、
どちらかといえば無限に上昇を続けるミサイルを書いたものであるように思った。
潰す者は幸いなり、潰す者は幸いなり。
幸いなのはミサイルか、それとも、かつて私たちであった、小人の輪だろうか?
最終連、ミサイルは視界から消えている。流れ星に祈りを捧げるように、
再び祈りの対象となり、恐らくは別のブラウン管にその姿をうつすまで飛び続ける。
めれっせん、めれっせん、めりこむ者として、烈しくある者として、
あるいはより劣った、より小さい(lesser)者としての。
作中の時間の輪は、2⇔3で閉じていて、そこに特定されない1→2が絡んでいる、
という感じでしょうか。既に全ての始まりである「私たち」がミサイルを打ち上げるシーンからも、
全てが完結するはずのミサイルの着弾シーンからも、独立してしまった閉じた時間軸のものがたり。
「美しい」という語句が大抵の場合引っかかりになるのだけれど、
どちらかといえばこの詩において、ミサイルは私たちにとって美しくあるしかなかったのでは。
自分たちで打ち上げたものに、どうしようもないくらい蹂躙されて、
ならばもうそれをしたのは「美しいもの」ということで自分たちを諦めさせるしかなかったのでは。
そんな気がします。
だから弔いの祈りはきっと自分たちのための物で、
(祈りと言うのは大抵、自分たちのためのものという前提を踏まえても)小人は、私たちは、いやらしい。
そして妊婦は怯えている。未来をその身に宿したひとが、怯えている。
ミサイルが本当は美しいのかなんて、これだけで充分わからなければならなかったのに。
月見里司 拝