生贄合評スレ[150]
2005 06/21 17:23
佐々宝砂

「武装放棄」の批評は書かないと昨夜のRT会議室で発言したが、前言撤回して、書くことにした。私は豹変するんである。君子は豹変するものだそうだが(そしてそれはマイナスの意味ではないが)、豹変する者が君子であるかどうかは知らん。かなり疑わしい。私の倫理観などその程度であることを、改めて表明しておく。しかしながら、「武装放棄」批評を書こうと決意したきっかけは、ikaika氏の「大人はしっかりしてくれ」発言である。彼が言う意味とは違うが、私は、個々人が個々人の倫理をしっかり持った方がよさそうだと感じている。後続の者たちは、オウムより多少マシな「大きな物語」たとえばナショナリズムを必要としているように見えるが、私個人は、そのような「大きな物語」なしに人間は生きられる、個人として倫理を保てると信じてる。

>『エヴァ』はアニメを観るのをやめて現実世界に帰れと主張した。セカイ系においては、少女を媒介として世界と繋がる。同じく、批評家の東浩紀氏も、どこかに世界とアクセスする回路が必要だと考えている。ところが、押井氏と『イノセンス』の特筆すべきは、それに対して、世界とコミュニケートする必要はない、人間も世界も大したものじゃない、孤立を恐れるな、というスタンスを明確にうちだしたことです。
(SFマガジン2005.7月号 笠井潔×山田正紀対談より山田氏の発言)


「武装放棄」の、物事の真理(のように思われるもの)を断定口調で、しかも抽象的な言葉ばかりで語ったスタイルは、アフォリズムの文体であると言っていいだろう。「銃」「武器」と言ったやや具体的な言葉ですらも、私の想像力を刺激してはくれない。正直言ってすげーつまらん。RT会議室で私が「武装放棄はクソだ」と発言したのは、この作品が詩作品としては膨らみに欠けており、言葉でもって言葉の危険性を断言するという矛盾を持ち、なおかつ「すべての正義から争いが始まる」と書きながら正義を主張する欺瞞性を持っているからだ。私はこのような作品を好まない。優劣の問題ではなく、好きじゃない。

しかしこの作品が凡作であるとは思わない。アフォリズムとして読んだ場合、この作品は意外に巧くできている。正義の危険性を主張したすぐそのあとに、「すべてが正義で/すべてが間違っていることを知らなければならない」という非常に反論しにくい主張を持ち出す。この主張が本気なのだとすれば、この主張自体もまた、正義であってしかも間違っているということになる。そして、「正しいことを証明するために言葉を使ってはならない/間違っていることを責めるために言葉を使ってはならない」という部分をまともに受け止めるならば、この作品の批評者は全く何も言うことができない。この作品は未詩・独白に投稿されているが、たとえ自由詩に投稿されていたとしても、作品そのものが批評を拒む。なんといっても「武器にしてしまう者を責めてはならない」という1行こそは、この作品中もっとも欺瞞に満ちた、もっとも保身的な、しかし非常に巧妙な1行だ。この1行を受けいれる限り、読者は作者を責めることができない。

この作品の読み方は、おおまかに言って二通りしかない。一つは、この作品の主張を矛盾を含めてまるごとおのれのものとして受け止め、ああそのとおりだと共感し、自分の生き方をふりかえるという、批評ではない読み方。もう一つは、この詩の孕む矛盾や浅さに、居心地の悪さや気持ち悪さを感じる、やや批評的な読み方である。後者の読み方をする人に、私は何も言う必要を感じない。前者の読み方をする人にも、実は何も言わなくてよいと思う。よい作品だと思うなら思えばよい。共感したならそれでよい。それはそれで幸せな読み方だ。悟り、ないし「気付き」に似た幸せを提供するモノとして、この作品は優れていると言ってもよいかもしれない。

だが・・・作者であるいとうさんには言っておきたいことがある。このような作品を、生贄合評に出すべきではない。私は批評を書いたり読んだりすることが好きだが、批評しない方がよい作品もあると考えている。「武装放棄」は、批評しないほうがいい、したくない作品だと思う。作品の出来不出来が理由ではない。詩の主張をまっすぐ素直に書いたのであれば、この作品が批評を拒むものであることに作者だって気付くだろう。素直に書いてしかも作品の批評拒否に気付いていないとすれば、自分の作品がぜんぜん読めていない証拠である(それはかなりみっともない)。あるいは、作品の矛盾を明確に意識しながらロジックを操ってみたのだとしてみよう。私はそういう作品を作品として認める。ある意味で読者を騙しているのだとしても、認める。騙し方が巧妙ならば絶賛してもよいとすら思う。

しかし、騙すならば、最後まで騙し通すべきだ。私の歪んだ倫理感覚はそう主張する。読んで感心してもらったなら、それで満足しておいたほうがいい。こんな生贄合評なんかに投稿してはいけない。少なくとも私は、この作品に感想やポイントを与えた人々の思いを踏みにじるような批評しか書き得ない。そして悲しいことに私は、そのような優しい人々を踏みにじりたいわけでは決してない。私は乱暴な人間なので、特に誰とは言わないが他人を踏みにじりたくなることもままある。だが、「武装放棄」にポイントするような人を踏みにじりたくはない。そのような人のことは、そっとしておきたい。気持ちは大事なんだから。それは嘘じゃないんだから。私なんかがへたに触ると傷付けてしまう。

ほらね、こんなふうにね。あああ、やっちまったよ。


作品で人やらセカイやらと繋がりたい人々は、繋がればよい。それはそれですてきなことだ。共同体なのかどうかは、まあ、どうでもいい。仲良しになるのはいいことさ。ポイントもすてきさ。パワーゲームも面白いかもね、私は興味ないけど。私は詩によってセカイと繋がりたいとは思わない。ネットで発言することによって誰かに肯定してもらいたいとも思わない。批評してくれと頼むつもりもないが、批評も、いや、批判も悪口雑言も拒みはしない。現実の私(の身体・生活)を傷付けるものでないならば、私は、言葉によって傷付けられることを拒まない。私の言葉は誰かを傷付けるだろうし、私を守ろうとする。まあ、お互い様だ。いとうさんの言葉だってそうだ。「武装放棄」という作品に使われた言葉すべてがそうだ。

そもそも言葉なんて大したものじゃない。詩だろうが未詩だろうが、個人の独白であることに変わりはない。言葉による傷なんてたかが知れてる。身体や精神のひどい傷だって、生き延びてればやがて癒える、孤立していても、言葉なしでも、人は生きられる。宗教やなんかの問題でなく、単純に、事実として、生きられる。いとうさんだってオトナなんだから、そんなこと当然知っているだろう。頼むから大人はしっかりしてくれ、ってikaika氏は言った。彼は私と正反対の位置に立っているけれど、ま、大人がしっかりしたほうがいいのは、彼の言う通りさ。
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