11/06 10:27
石川和広
真面目にいうならさ、たぶん語の使用のありさまから何かルールというとキツイけど、それを誰かが抽出する過程で文法は生まれる。あるいは言葉は分けるものだから、具体的に使うこと、関係とか文脈の中で使うことと、その使い方を考えたり整理したりする働きは相互補完的だなあと。
語の使用がないと言葉の世界はない。だけど、語の使用のありさまについても、考える深さはいろいろだけど、考えてるんじゃないの。
いいっぱなしもあるけど、そのいったことについて考えるのも、どっちも必要。
なんで指摘する人とされる人が分かれて喧嘩しなきゃならんのかわからん。
そういうのは学歴とかあほだからというだけの問題なのか。自尊心とそれを傷つける者という問題なのか。
やっぱり関係のつくり方、まさにそういうことだと思う。
俺も僕より年上の人と合評したりする。んで、山田さんのように「作品と作者は切り離したい」という人はけっこういる。
で、そういうのはなぜかかんがえてみたんだけど。
したら、結局山田さんよりもさらに上の年齢の人やあるいは同年代の人同士でね、作品について議論するときに書く人の人格批評みたいになってしまっていたのかなと。
だから山田さんのような人はそういうやり合いに嫌悪を覚えて、作品と作者を切り離したいというんじゃないか?
もちろん現代思想とかテクスト論とかの影響もあるとおもうけど。
これは推測だから山田さん、まちがってたらごめんね。けどねそういう事情もある気がするんだ。山田さんの人格批評への違和感はまっとうだと思う。
けれど、うまく伝わっていない。どれだけ第三者性が書いた作品にあっても、作者の意気込みとか作った人の意思と作品はそうそう切り離しがたいんではないか。
切り離している、あるいは切り離したいと相手にいうことで、逆に相手が「いや、でもこれは俺の作品だ」と逆に意固持になっているようにも見えるの。
依怙地になるほうにも問題は多分あるんだけどね。でも自分の作品に誇りとか恥をもつから意地になるのかなと。その指摘された人の出し方が山田さんを傷つけてることも、指摘されているかたは気付いたほうがいいし。
報復合戦だとしんどいよ。
#依怙地、訂正