2008 11/27 17:00
小池房枝
引用始まり。”口語を用いて、片言のような表現しか出来なくても歌(詩歌)はうたえる”引用終わり。
というわけで、おそらくは口語を用いて、カタコトのような表現で、詩を試みてみました。自由詩、という言葉は日本語でない言語にもあるのだろうかと考えさせられました。これ、「ラテン語のかたち」という本の付録CDの例文を並べ替えてみたものですから。
題だけは、家に帰ってからインターネットのラテン語格言集を浚って拾ったものです。前スレッドからこのスレッドに移る頃に実川さんが退会なさっていて、昨日か一昨日あたりにKlausermanspitzwegensdorfentagさんもまたフォーラムを去られたようでした。
一度もお話できませんでしたが容易く呼ばれないために名乗る名前もきっと世の中にはあるのだろうなとそんなことまで考えさせてくれたKlausermanspitzwegensdorfentagさん。昔、昔の文書なら、そこにある綴り間違いや文法の間違いや当時の流行語や方言はそのひとなり何かなりを読み解くための大事な資料であることでしょう。でも今、相手と同じ時間にいて読んだり書いたりしているときに、もし相手の何か間違いかもしれないことに気がついたらひとこというのもありではないかな、もっと言うと気がついてるのに言い間違いかどうか確かめてみてもくれずにふんふんそうかそうかこのひとはこうと黙って観察してるだけって、私だったら教えてほしいぞと、そんなことお話してみたかったのですが。
正しい言葉遣いの"習得"を"強要"するのも、また逆に言いたいらしいことは大体分かるからと何ひとつ聞き返したりそれならそうはいわないよと教えてあげたりしないのも、どちらも両極端だと思うのです。統語論的な問題についての指摘とか、形態論とか意味論とか言われるとこんがらがってしまうのですが、昼ごはんまだなら一緒に行くかな?と思って「昼ご飯もう食べた?」って聞いたときに答えが「うん、もう食べる」だとどっちだかわかんないです。「食べた」がタバタでもタベルシマシタヨでもかまわんですが「食べる」との区別だけは(この場合)ないと困る。
書かれたものを挟んで書き手と読み手の間でも、きっと上のような例があるでしょう。流暢かどうか、不自由ないかどうかではなく、今、乗っている船なのか、かつて乗ってきた船なのか、言いたいのはどちら?と。それならこの形だと意味、違うよと。
多くのひとは多くの場合(遠くの大きな氷の上を)読まれるつもりで読ませるつもりで書くと思いますから、書かれたことどもの意味の疎通をはかることも意思の疎通。コミュニケーションかどうかは、これもまたコミュニケーションの意味合い次第ではありますが。そんなことは些細なことで文学や芸術を目指してるだけだとしてもどんな反応もリアクションもどのぐらいそれら足りえているのかのヒントにはなりましょう。
だけとかかいちゃってごめんなさい。>文学・芸術各位。ですけれども。でした。