2008 11/21 19:25
小池房枝
no.119を消して書き足したno.122を消して投稿します。先日の孤蓬さんの投稿にも少しだけ関連して、違和感について。あと先ほど白井明大さんの投稿と、直接違和感についてではありませんでしたが石川和広さんの投稿、それぞれ拝読して、なんだか石川さんには言いたかったこと先にいわれちゃったような気もして、それもあって。では本題。以前に読んだ「神々の食/Nector and Ambrosia of Okinawa」という本にこんな一文があったのでした。曰く、大袈裟な言いかたになるが、人の口に入るものを用意する際の基本は誠意である。怪しいものを供してはいけない。
読んだ時にこれって言葉もそうだよな、おんなじだよな、と思ったのでした。身のうちに受け入れる、という点では食べることも読むこともかわりませんから。そう考えると食べる側としては、読む側としては、口にしたもの目にしたものにもし違和感を感じたなら無理に飲み込んだりしないほうがいい。苦しくなったりお腹を壊したりしないとも限らない。供する側の誠意や悪意にかかわらず何かが危険だったり変だったりすることはままあることだし、万人にとってなんでもないものが自分にとってはやっぱりちょっと、ということもありますから。
違和感も、生き物として大切な感覚のひとつだと思うのです。多分これは違和感を感じる等と言われたことに対する違和感も含めて、ですね。違和感には理由がある。必ずある。慣れていないだけだとしても普段親しんでいるものとは違う何かがあったということだし、気のせいだとしても気のせいを引き起こした何かがある。そしてそれは、理由をいえない場合も同じこと。なぜって、たとえば誤字脱字誤変換タイプミスその他についてならばまだしも、日本語を母語とするひとがいくばくかの日本語について恐らくは文法のことで違和感を覚えたとき、それはそうはいわない、こういうものだ、とそれ以上の説明は出来ないこともあると思いますから。説明できるに越したことはありませんが。
赤ちゃんのときに理屈ぬきで覚えたものは心の中で理屈になってなくても当たり前で、言語説明能力は言語運用能力とは別で、あれ、逆かな。逆も同じか。でもそれでも万人の心の中には母語の語彙だけではなくて文法もあるのですけど、という話は前回に書きました。
というわけで、すみません、どなたか、急ぎませんからまた何か発言挟んでいただけませんでしょうか。どらすてぃっくな変化の最中の現生日本語(こんな言葉ほんとはありませんが)に流入しているさまざまなものには何があるだろうとか、あとずっとそのままになってる学校文法の話とか。宜しくお願いいたします。