2005 03/07 05:18
ワタナbシンゴ
>石川さん・みなさん
はいはいー。フォローをありがとう。国民国家の幻想にとらわれていることを踏まえた上で、不快な隣人たちをも含む社会とどう向き合って、どう築いていくのか話し合えれば面白いですね。たとえば森巣博さんみたいに、彼の息子が何人でもない(息子はイギリス生まれの、オーストリア国民で、アメリカに住んでいて、父は日本人、母はイギリス人)っていうところから、国民としての刷り込まれた帰属意識を、市民としての意識として選択していく主張なんか、ぼくはわりかし好きなんだけど、それは、日本にいると割かし限られたひとのことであって、多くの人は、俺は日本人とかイラク人とか考えるわけですよね。でも、そこに想像力を働かせて、国籍ってなんだべ?って思うことは面白いと思うんです。もちろん、国や民族の状況として、そんなのんきなことを言っていられない現状もあって難しいのだけど、やはり帰属意識ばかりが先鋭化してしまうと、オルテガさんの言うように、たいがいに分散し敵意を持つ小集団がはびこる時代に陥ってしまう。
ぼくは思うのだけれども、共同体が他者を排除する存在だというのは、恐らく限られた見方で、イスラームなんかも、元来は外部の者に対して寛容なんだよね。イスラム圏を旅して感じたのだけれども。おそらく、状況がそう排他的に追い込むだけであるのだと思うから、その状況を、追い詰めないように、いろいろとバランスをとって少しずつ少しずつコミュニケートしていくしかないのかなと。
たとえば辺見庸さんなんかは、日本人なんか大嫌いな元従軍慰安婦のオモニたちと付き合っていく中で、日本人は嫌いだが、あんたは好きだって言わせちゃう。交流次第で個人は国籍を超えちゃう。ぼくはそれがいいと思うんです。基本は個人としての付き合いの中でのことでどう向き合っているかだと思うし、そこでの信頼関係が築けるか、築けないか。国の問題は、また別次元で話し合われる問題だから、そこを一緒にしちゃうとややこしい。ぼくもイギリスであまりいい思い出がなくて、イギリス人好かんなあと思ってたんだけど、別の友人とかは、イギリス人にめっちゃ親切にされてて、イギリスびいきなわけ。だからこういうことって、個人の出会いだと思うから、それを国の問題に広げてしまうのはちょっと飛躍だと思う。たとえば、沖縄でいい出会いのなかった人は、沖縄人嫌いとか、東京で冷たくされた人は、東京人(だいたい東京人って何だ?)冷たいとか、そういう話ってとても個人的な経験を幻想肥大化してしまっていると思うんです。
網野さんは日本人の定義を、「日本の法制化で暮らす者、それ以下でもそれ以上でもない」って言ってて、ぼくは気に入ってるんだけど、何で気に入ってるかっていうと、そこに作られたナショナルな言説(小熊の英ちゃんとかが書いてるのは、スリリングだよね。もちろん網野さんもファンタスティック!ハートさんやネグりさんは重戦車。もちろんアンダーソンさんは偉大なり)が入ってこないからで、そういった意味では、国民じゃなくて、市民なんだと思う。だからやっぱり、そういう風にきちんとその辺りを整理して、感情的な国民的幻想からもっと市民的意識の話で、捉えていくことが必要なんだと思ってます。
でも郷土意識って人間国に限らずあるものだから仕方がないと思うのね。けれども仕方がないっていってちゃ始まらないから、ぼくはそこからオルテガさんの言うような意識をやはりみんなが持っていくしかないと思うのですよ。
>共同幻想の民族国家は機能している国はたくさんあると、ぼくはこだわりたいし、実際、行政単位としての国家が、我々の生活を保障し、また抑圧もしていると言うのは忘れたくない
うん。だから市民意識は、国家からもっと自律して、国家を市民の側にもってくる格闘が必要になってきますね。そこでは個人の暮らしが問われてくる。逆に言えば、誰しもがデモクラシーを始められる。
1 もっとも不利益をこうむる者が、もっとも発言力を持つ
2 デモクラシーは、自宅から始まる
3 すべての人間は外国人である
4 すべての人間は、世間に迷惑をかける権利がある
5 すべての人間は、権力による抑圧に抗するために、失敗を恐れず行動する権利がある。
6
7
8
9
10 すべての人間は、自分たちの暮らしをより良い方向に変えられるボタンを持つ。
(姜尚中・テッサ・モーリス『デモクラシーの冒険』 *空欄は読者が埋めるため空白)
世の中違うもの同士で成り立ってるのが前提だから。きっと時間がかかるけどさ!