2004 10/15 14:16
一番絞り
えーと、オリンピック妨害男の件でわたしの発言に★を付けてくださった方々へ。
ご迷惑をおかけしました。
わたしのせいでさんざんな目に合わせてしまいました。
もう★などつけなくても結構ですよ。ええ。躊躇せざるをえませんものね。
ただ、どうしてわたしの、あのような突飛な発言にあえて★をつけて下さったかは、わたしなりによく
理解しております。
わたしは発言の前に、最初にこの発言は極論であることを断って、
>《ふつうに考えればあのような「異常」な男の行為をかばうのは尋常の沙汰ではないだろう。》
と書いております。
それでも、あえてだれひとりかばうものない孤立無援の中にいる人物の側に立ってものを考えてみようとした
その姿勢を買っていただいたものだと思っています。
意見を肯定してもらったとも思っていないし、妨害をみとめての★だとも思っていない。
そんなことはあたまりまえのことです。
反対であれ、なんであれ、その文章がなんらかの意味で参考になったり、あるいは、ぜんぜん納得できない考え方にしても
最後まで面白く読ませてくれたとか、そういうことで★をつける人がほとんどでしょう。
わたしもそうです。だからこそ★はとてもうれしい。肯定とかではなく最後までちゃんと読んでくれたんだ
というそのことがうれしいからわたしは★を入れられることが好きです。
それなのになぜか、★をつけた方々がわたしの意見を肯定しており、オリンピック妨害を認めたかのように言いつのって
一方的に攻撃されたわけです。わたしの極論に星を入れられたみなさま、ご愁傷さまです。ほんとうに申し訳ない。
こんな短絡な反応をするアホが一部いることは知っていましたが、わたしの発言の前段をちゃんと読めば
わたしのモチーフはわかるはずなのです。
以前からそうなのですが、わたしは誰一人擁護することのない立場にある人の側に必ず一度は立ってみます。
卑近な例でいえば、野村佐知代とか公務員の愛人に数億貢がせて捨てた去った南米から来た女性だとか
マスコミのわけのわからないパッシングにあい、彼女らをかばうものは人間でないというような風潮が世間に
つくられたときも、必ず彼女らの側に立って考え、そのことで、いつも示唆するものがあることに驚いていました。
右も左も猫も杓子も、言論が一方向にだ,だ,だと流れるとき、流れ傾いて空いた空白には必ず
なんらかの示唆するものが残されていることを断言しておきます。
これはみなさん、覚えておいてください。言論が一色になるときは必ずなにかおかしなことになっていると思ってまちがいない。
そこで立ち止まることはとても大事なことです。
政治的な出来事でいえばたとえば「天安門事件」。
これは右も左も、猫も杓子も、だ,だ,だーと「言論」がある一方向に流れ傾いて、爪の先程の異論もなくなった
最初の兆候というか出来事でしょう。
いわく「自由を求める労働者の蜂起」「それへ人民中国軍が銃を向けた」。
この意味解釈の方向性にすべてが流れた。すべてがです。文芸春秋も朝日ジャーナルもすべて。あとには、ぺんぺん草も残っていなかった。
覚えておいてください。こういうときは、言論としては、必ず、なにかおかしいのです。
わたしは直感的にピンときました。これは「労働者」の「反政府蜂起」なんかじゃない。ほんとうの労働者なんかどこにもいないと。
いわば中国エリート層の内輪喧嘩だ、と。そんなことはちょっとまともに手に汗して働いたことのある人なら
直感的にわかることでしてね。実際、蜂起したとされる「労働者」のほとんどは中国共産党エリート層の師弟だった。
エリート学生が中心でした。次世代の支配エリート層が支配親エリート層に反抗した、その程度のものでしたが、アメリカはおそらく
このことを政治的に利用するつもりだったのでしょう。
もとより、当時の毛沢東中国なんてのは共産主義国家でもなければなんでもない、マルクス主義を利用した単なる王政国家です。
こんな国で何が労働者の蜂起なものですか。ほんとうの労働者は中国の奥深く、監視というくびきと重労働の桎梏のなかで
呻吟しているさなかの出来事ですよ。案の定、首謀者のエリート学生はその後、米国に亡命し悠々自適の生活を送った。
こんなものを「労働者の蜂起」といい「人民軍が労働者に銃を向けた」と報道する。その背後にはまさにアメリカの
政治的意向があったと思いました。
当時、このことにただひとり動揺せずに、状況を冷静に判断していた人がひとりいました。
ほかならぬときの首相、宇野宗助でしたが、芸者との関係をマスコミに暴露されて失脚しました。
天安門事件を機に、中国に経済制裁をせよアメリカ政府から要請されたにもかかわらず勇敢にもそれを断ったからだとわたしは思っています。
もとい、話をもとにもどします。
わたしの発言に対して
イチローの新記録とイラクの無差別爆撃がなんの関係があるのだという意見がありました。
いったいよくもまあ、こんな愚鈍な意見を言えるものだと思うのですが、しかたありません。それがいまのレベルでしょう。
《「政治が生活の集約であり、戦争が政治の集約であるかぎり、戦争にはまた生活にあ るすべてのものがある」(植谷雄高)このアフォリズムには「生活には戦争にあるもの すべてのものがある」とも読み替えできる仕掛けになっていることに注意すべきであ る。》辺見庸
わたしはそれゆえ辺見にならって、変哲もない生活のなかに戦争のもつすべてのものがあるという前提でニュース感想を書いているつもりです。
いったいこのohatuさんというのは、たとえば「報道」という接点を通して、イチローとイラク空爆が
わたしたちの日常にどのように操作をおよぼしているか考えたこともないのでしょうか?
実際、どこかでこの方の大根斬り批評を読んだが、批評にもなにもなってなくてお友達紹介てな感じだったが...。
ああ、言いたいことは山ほどある。しかし、ちくいつ反発がくる。反発がくるということはまだ
わたしが間違っていないということの証明なのでしょう。
でも、ほんとうに孤立無援までいかなくてはね、ほんとうに何かをいっているのだとすれば、今の時勢ではそうなる。