07/12 15:10
もぐもぐ
>546
星を入れたのでちょっとレスポンスします。私が考えていたのは、以下のようなことです。
言葉の暴力と、現実に身体にふるわれる暴力の間には、同じ暴力という言葉が使われていても、超えられないくらい大きな違いがあると思う。
(どちらがよくてどちらが悪いということが言いたいわけではない。)
自分の身体を他者の自由にされてしまうことは、その個人の尊厳の根幹を侵す危険性がある。肉体的暴力は勿論、拷問や、監禁や、レイプや、身体的に名誉を損なうような行為をとらせることは、極めて重大な犯罪であって、このことは、人間にとって自分の身体を自分でコントロールするということの持つ、重要性に由来している。
(例えば、体が利かなくなったとき、自分を卑下したり恥ずかしく思ったりすることが多いのも、やはりこの、同じ身体の重要性に由来している)。
身体の自由という人権は、その意味では、他の全ての人権の享有のための、大前提をなしていると思われる。そのような経験から語られる言葉にも、深く、耳を傾けるべきものがあると思う。
ここからは例えばの話だけれども、
例えば病に冒され、体が不自由になり、そうした経験を、健康な人は軽んじがちなことがあるが、そこにある超えられない経験の溝を知ること、それはそう生易しいことではないと思う。身体を陵辱される経験もそれに似ている。その限りで、今健康な立場にあるのなら、そうした身体的な苦痛の経験から語られている言葉に、慎重になってなりすぎるということはないと思う。