ニューススレ[545]
07/12 13:10
もぐもぐ

複数のリアリティーということ。


比喩的に、

人と人が会う。全ての人が異なった経歴と思想を持っている。

人が経歴と思想を持った個人であることを止めて、あるシステムのパーツになるとき、物事は淡々と、合理的に進められていく。

とても高い地位に上り詰めるまで、私たちの殆どは、その若い時期に、こうしたパーツになることに、人生の多くを掛けて、習熟していく。それが、仕事というものだ、と。そして、そうしたパーツとして機能することで、生活の糧を得ていく。

システムの運営者は、勿論、パーツである私たちとは、違った風景を見ている。パーツが上手く廻ること、システム全体が、他のシステムと衝突せずに、或いは他のシステムと衝突しても負けずに、廻り続けることができるように。

変える。運営者の立場から、物事を変えるというのは、システムの動き方を、他のシステムとの関わり方を、変える、ということ。


もっと個人に焦点を当てた、思想や信条もある。

人の生き方はパーツであることだけではない。
人は、パーツであることを離れて、個人として何かを立ち上げ、或いは他人の立ち上げた物事の中に、自主的に、参加することができる。日々の糧を得ることとは、別のところで。人には仕事以外の生活がありうる。
ボランティア的に他の人の利益のために働き、あるいは趣味や各種の技能を、学び学びあう、そうした時間も、過ごしうる。

人は、家族や友人に囲まれた、生活者である。かつて家族は最も小さな経済共同体であったが、最近はその経済的共同体的繋がりがやや緩やかになり、何のための家族か、家族であることはどういうことなのか、絶えず問い直されるような状況が続いている。家族や友人は、何をするでもなく、ただ語り合いただ共に時間を過ごす、そうした存在でも、ありうる。

人は同時に、他のシステムの受益者であり、消費者でもある。その選好によって、あるシステムをより栄えさせたり、衰えさせたり、することのできる存在でもある。

人は政治的な存在でもある。団体を作り、集団で、他の集団と掛け合うことによって、特定のシステムの動き方に影響を与え、或いはその方向性を変えさせることのできる存在である。


戦争とはなんだろうか。

大きな国家が、組織された軍隊を動員して、戦いを行うとき、それはある軍事システム同士の、管理されたぶつかり合いである。

同じ国内で覇権をめぐって争う、内戦の場合も、複数の集団が、それぞれ軍事システムを組織して、極力それを管理しながら、相争う。

革命や、民族独立戦争では、私人がそれぞれ武器を手に取り、自主的に集まりあうことで、緩やかな軍事システムを組織し、国家が動員する管理された軍事システムに、対抗する。

無政府状態においては、もやは全ての者は完全に抑制から解き放たれて、自由に他者に対して、暴力をふるう。散発的な個人の暴力から、一定程度のまとまりをもった暴力的組織による暴力まで、思い思いの暴力が、何らの抑制もなしに、解き放たれる。


戦争は人を殺す。それは確かなことだ。
散発的に起こる暴力行為も、人を殺す。経済も、糧を得ることの出来ないものを、見えない場所で殺していく。交通事故や、自殺や、医療事故や、全ての場所で有形無形の死が、生じている。弱者は放置されることで、見えないまま死んでいく。これらは通常のシステムの中で起こり、処理されていく、管理された殺人と死である。(このような管理された殺人と死についても、絶えずその反省や是正が、試みられ、そのための努力が続けられている。)

戦争の真の恐ろしさは、局所的に、或いはとても大きな範囲に、無政府状態を作り出すことにある。そこではもはや殺人も死も何ら管理されることはない。厳しく訓練を受けた規律ある軍人が、過度のストレスから、或いは戦場という異常な場所の故に、軽軽しく他者を殺してしまうことも起こる。普段は真面目な市民だった人が、国家のシステムが破壊され、もはや抑制する何ものもなくなったがために、暴力に走り、略奪や暴行を恣にする。

暴力は管理されなければならない。管理されない、目の届かない場所でこそ、暴力はその最大の残虐さを発揮する。そして、無政府状態が広がることは、その管理されない場が、極限にまで大きくなっていくことである。

無政府状態を終わらせるための、管理された暴力による戦いは、その限りで正当化されるだろう。
自由な討論に管理人を設けることはふさわしくない。だが、物理的な暴力には、その暴力を管理できる管理人が、常に必要なのだ。
(暴力の管理人が、暴力を濫用すること、警察官や、軍人が、その暴力を濫用し、若しくは、強大な軍事力を持った国家が、不当に他国に軍事力を用いること、そうした濫用は、常に監視されなければならない。)
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