ニューススレ[485]
07/11 19:24
もぐもぐ

天皇制、及び宗教に関して、雑記。


天皇制というのは、とても難しいポジションにある。

1.それは長い伝統をもったある氏族のことである。その氏族がどういう伝統をもってきたか、それ一つだけで膨大な話が出てくるだろう。

2.それは帝国憲法における主権者であり、日本国憲法における正統性の一つの要素である。日本国憲法は、帝国憲法との連続性を確保するために、天皇制を最小限の形で存続させている。
2-1.これは一つに、天皇が帝国憲法時代における権威として一定の連続性を持っているということである。
2-2.またもう一つに、天皇は日本国憲法上の一機構として、限定的だが欠かすことの出来ない一定の役割を持っている、ということである。
(日本国憲法下では、天皇は、内閣総理大臣や最高裁判所長官の任命や、国会の召集・解散、法律の公布等の、形式的な国事行為しかすることができなくなった。
他方、これは別の側面から見ると、その形式的な国事行為がない限り、総理大臣も、最高裁も、国会も、法律も、機能しない訳で、その限りで、天皇の存在というのは、日本国憲法の不可欠の一部である。)

3.天皇は国民統合の象徴である。この象徴というのは、多数人の集まりでしかないネーションを、一つのまとまりとして現すための記号である。
なお、象徴といえば、国旗や国歌も国民統合の象徴であるが、これらは単に法律上定められた象徴であるのに対して、天皇は憲法により直接的に明示された象徴である点が、少し異なっている。また、憲法上、天皇が国民統合の象徴であることは、国民の総意に基づくものと規定されている。
因みに、象徴を積極的に崇拝したりする義務などは、どこをどうつついても出てこない。(例が悪いかもしれないが、これは、鳩が平和の象徴であるからといって、鳩を崇拝しなければならないわけではないのと同じである。)但し、憲法上の国事行為として正当に執り行われている儀式については、それを妨害することは、恐らく憲法上の権利の濫用として、認められないだろう。

4.その上、天皇は、国家神道においては、その祭祀の主宰者として特別な地位を保有している。これはその宗教における諸々の独自の理論によって規定されているだろう。

このように、天皇の立場は、極めて込み入ったものである。それに対してはっきりと一貫した姿勢をとることは、そう簡単なことではないと思われる。


2-2.と3.の意味における天皇は、日本国憲法によって、その統治機構の一部として新たに創出された、特殊な機関であると考えておけばよいのではなかろうか。その権利義務の内容は、憲法規定によって判断される。
(基本的に、天皇は、憲法典に列挙された限定的な国事行為以外の行為は、行うことができない。
この点一つ問題になるのは、天皇が各地を訪問したり、自治体やら外国やらで各種の会議や祭礼に参加したり、ということが、国事行為として認められるか、という点である。憲法上明文の規定は存在していないので、法律を制定して、天皇が行うことのできるこうした例外的な国事行為の範囲を明確化することが望ましいように思われる。
もう一つの問題は、憲法上、天皇や、その他国旗や国歌といった象徴に、どのように接しなければならないのかという問題である。これもはっきりした規定はないので原則的には立法者による憲法解釈に委ねられてはいるが、崇拝するか忌避するかという問題は、思想良心の自由に立ち入るものなので、それについて法律等で立ち入って規定することはできないだろう。
これは更にややこしい問題を孕んでいるが、原則的には、憲法上の正当な国事行為や、法律に則った公務執行としての儀式において、使用される各種の象徴を物理的に毀損することはやはり禁止されるだろう。また、その儀式が公務である限りにおいて、その遂行を積極的に妨害したりすれば、公務執行妨害などの罪に問われる可能性は否定できない。
但し、起立しないとか、歌わないとか、その程度の消極的な妨げについては、これは単なる社会的な礼儀やスタンスの問題であって、法律上どうこうという話にはならない。主催者側は皆儀式に協力してくれた方が嬉しいだろうし、他方、やむにやまれぬ思想上の理由によって、あえて、礼儀に反するようなこともせざるを得ない、と思っている場合とてありうる。この辺はここの人や場面ごとにおける個別的な話し合いと妥協の問題であり、それだけに極めてセンシティブな問題でもある。
なお、いずれにせよ、そのような場で何らかの特定の行為をとったことが、後に公的な場面における不利益扱いを招く理由とされてはならない、ということは、少なくとも言えると思われる)

1、2-1、4の点については、歴史上の事実の捉え方や、特殊な神道理論に基づく問題となるので、思想良心の自由や信教の事由によってカバーされる領域に関わる。
まず4について、関連して、国家がどの程度宗教行事に関与できるかという政教分離の問題が生じる。これは国家が特定の宗教を支援・助長してはならないとかいうような基準で判断される。
そのように国家が能動的に宗教行事に関与してくる場合を除いては、残りは原則、歴史や、神道理論をどのように認識するかという問題になり、これは基本的には個々人が経験や学習を通して判断していくべき事柄である。天皇家の歴史に通じた者や、神道の信奉者が、それを説き広めたり、それに反対する者が、それに反対するよう説き広めたり、するのは何れも自由な私的活動として正当な事柄である。
但し、特に宗教の問題については、その個人が受けたことのある宗教的訓練の度合いによって、それぞれの宗教観の落差というのは埋めがたい場合も多い。良かれと思ってした熱心な布教活動がトラブルを引き起こすことは、どのような信仰においてもしばしば起こることである。この辺、各個人が、本当にその他者を説得したく、それに最もふさわしい手段をとっているか、技量が試されるところである。(真正面からの論破が自分の信仰・信念等を広めるためにふさわしい手段であるかは、個々のケースによって見極めが必要であろう)

相対的に、今の日本では宗教アレルギーが強いようである。しかし、宗教が数千年に渡って人間の文化の深いところ浅いところで影響を与え続けてきたことは事実なので、単に非合理的であるとかいった形で単純に全ての宗教を一刀両断切り捨ててしまうことは、極めて多様な多数の宗教や、それらの宗教の影響の下形成されていったそれぞれの文化の多様性に目を瞑ることになってしまい、各文化の相互理解のためにはかなりマイナスである。信仰するにせよしないにせよ、それぞれの宗教やその基礎理論の概略について、正当に把握しようと試みることは、全ての人にとって有意義な経験になると思われる。


あと、個人的な信条として思うに、

思想良心の自由にせよ、信教の自由にせよ、単に憲法上対国家的に主張できるというだけの話を超えて、各人の人生観に関わる極めてセンシティブな問題を生じさせる可能性を絶えず孕んでいる。最終的にどの見方を受け入れるにせよ、そのそれぞれの時が、各人の人生観の根底に触れうる、とても危険な瞬間であること、そして気づかぬ間に無形の暴力をふるってしまっている瞬間になりやすいことに、その怖さに敏感であり続けることが、いかなる思想宗教の前提としても必要になってくることと思われる。

勿論べらんえ口調で語るのも、一つの愛情ではあると思うのですが。
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