ニューススレ[297]
07/01 18:09


 最後の意見は、非常に誤解され易い内容でした。その補記を記載して、終わりと致します。ohatuさん、助言ありがとです。でも、それだと泥沼なだけなので、このような一方的な意見発信に終始しております。


 補記。

 人権の面から一直線に天皇制を見た時、それは差別だ。と同時に、世界中の王制、王室、そういったものの総てが差別と断定されてしまう。王制等が今日にまで延々と続いている国家は、すべからく、差別国家と見なされてしまう。イギリス、日本、オーストリア・・・。
 では、そういった諸々の国から王制を排除した時、そこには何が残るだろう。そういった国々では、王は民をまとめる為の存在であったり、国民の象徴であったり、憧れの的になっていたり、場合によっては恨まれていたりもするけれど。どの国を見ても、基本的には好かれているのが実情だ。(嫌われている場合、独裁国家という名の冠が付く。)
 どの王制を敷く国でも、王家はその国の歴史の中枢を担ってきた。王は善政を敷き、国民に慕われてきた。それでも人権という言葉のフィルターで覗き込む時、王制は差別の一言で排除されねばならなくなる。これは、非常に悲しくて恐ろしいことなのではないだろうか。
 王が、どれだけ差別を嫌って公民に平等に接し、そうなるよう善政を敷いていたとしても、人権という言葉の前では無力なのか。王、という身分を着ているが故に、差別する側なのか。

 誰だって、差別は嫌だ。無くしたい。けれど、差別という言葉の中には、排除されるべき差と、残されるべき別、二種類の差と別があるのではないだろうか。
 戦争が、民族独立を目的としたものか、侵略による利権確保を目的としたものかでは、その価値に大きな開きがある。それを、戦争=悪と捉えたのでは、その民族は独立さえままならない。そうして軍事政権下に虐げられている民族がある。
 戦争とは政治の一手段。かの武田信玄も、そう言っていた。それでも日本には、戦争アレルギーの人々がいる。同じだ。日本には、差別アレルギーの人間もいる、ということ。国への意識が、余りにも希薄な人が多過ぎるのではないだろうか。

 以前、現代詩フォーラムにおいて、私は「人権の前に、まず、国ありき」と言った。この「国」とは、祖国のこと。これは一個人に対する家族のようなもので、これが無くては、何も立ち行かない。無国籍の人間が、どこかの国へと行けば、それは難民だ。世界中あちこちに住まう難民の願いは何か。人権?祖国?そんなものは聞くまでもない。まず、祖国。誰しもが、祖国において、人権を主張するのだ。

 日本という国は、フランスみたいに市民による革命から産まれた国ではない。アメリカや中国のような、人工国家でもない。イギリスやオーストリアのように、王制が導いてきた国なのだ。そういった国では、王制(天皇制)だけは、差別からは例外視するべきだと思う。何もかもを差別という名の元に裁断することだけは、あってはならないと思う。

 誰だって、差別なんて嫌だ。私もそうだ。でも、それを撤廃させようとして祖国を見失うようでは、元も子も無いではないか。
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