長谷川のこと
蒸発王

我が家にはじいやがいる
じいやの名前は長谷川という


『長谷川のこと』


長谷川は今年で82になる
大正の殆ど終わりに産まれて
人生の殆どは昭和に飲み込まれ
青春の殆どを戦争に埋められた

わずかながらも
輝かしい長谷川の青春は
書生時代
住み込み先わがやの用で
頻繁に東京と京都を行き来した彼は
京都で1人の娘とであった

娘は駆出したばかりの芸者で
ドウランは似合わなかったが
紅がよく似合う
初々しさを形にしたような娘だった

長谷川は思いを交わしたが
今のような付き合いは無く
一緒に並んで川沿いの桜を見たり
伏見稲荷の真っ赤な鳥居の数を数えたり
ロマンチストな長谷川は
ハイネの詩を暗唱したりして
とつとつと時は流れた
手も繋げない時代だったが
心はもっと近くにある時代だった


やがて
長谷川は出兵することになった
折角金を出して大学に通わせてもらったのに
申し訳無い

住み込み先に謝りながら
レースのハンカチと
其れに包んだ
彼の人の写真を2枚
将来の約束を
左胸に入れ
ベトナムを這いずり回った



長谷川が
生きているのか死んでるのか
わからなくなった頃
福音が決まって
じんわりとした喜びにひたったが
福音の際には持ち物は全て燃やさないといけなかったため
長谷川は泣く泣く
レースのハンカチ包みを投げ入れた



京都

長谷川は真っ先に彼女を探した
住み込み先も総力をあげて探したが

彼女は見つからなかった

という




残念だったね

私が言うと
長谷川は首を横にふって
(出会えなかったから)
(思いを遂げられなかったからこそ)
(忘れずにいられるのでしょう)
目だけでゆっくりと笑い
ハイネの詩を暗唱してくれた



長谷川はそれから
住み込み先の会社で事業をまかされ
そこそこ成功して
別の人と家庭を持って
歳をとって
生きて


私の横で玄米茶を煎れている




空気のような寂しさと優しさに

私はどれだけ感謝したか知れないが

その思いが遂げられないからこそ

どんなに些細でも

長谷川のことを
忘れずに居られるのだとも思う








『長谷川のこと』


自由詩 長谷川のこと Copyright 蒸発王 2006-12-21 20:35:39
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