「詩を 想う」
わら
ワタシというものにとって、
「孤独」というものは生涯のテーマのように思います。
ずっと、むかし、いうなれば、少年時代より、
すこし背伸びしたここちもありながら、「孤独」というものを思ってきました。
まあ、使い古したコトバであるようにも思います。
それは、だれしもが感じるもの。
だから、一時期は、あえて「孤独」というコトバなどを思わないようにもしていました。
だけど、やはり、ソレは ワタシにとって、
本質なのですね。
数年の時を経て、やはり「孤独」というものに直面するようになってきました。
再び、意識を持って 詩のようなものを書きはじめたことが、そのコトバに息をふきかえさせたのか。
それとも逆か。
それは、わかりません。
ですが、今は、 ワタシは、孤独というものを通して、本質的に己を見定めつつあります。
「生」を営む上で、単純なるタイムリミットのようなものも あるのでしょう。
もうすぐ、一人の人間として、
一人前の大人として、
自立していかなければならないのです。
人として、男として、それは当然のことです。
そして、また、それは、ゆるぎもないタイムリミットのようにもワタシには感じられたのです。
いつまでも、こころの痛みをいいわけにして、ふわふわと、宙をただよっているわけにはいけない。
なにかの礎としてワタシも なにものかに ならねばならないのです。
そのような現実の迫りくるのを前にして、
ワタシは より、己というものに直面するに至ったのです。
そして、見えてきたものは、やはり、
「孤独」というものです。
「孤独」な人間なのです。
いや、それは、すこしカッコつけた いい方になるかもしれません。
もっと、言うならば、
「さみしい人間」なのです。
「あわれな男」なのです。
いつも、いい知れぬ孤独感の中にいます。
だからこそ、
ときに、だれかと話し、ふれあい、酒を飲むことに、
たまらない よろこびをおぼえるのです。
一時の ものであることを知りながら・・・
酒、 そして、
ふれあうこと。
わたしのこころは、 肉という器の上にのっています。
それも、また、わたしの本質です。
こころは体感により ゆりうごかされるもの。
かなしいほどに そうなのです。
わたしのように、「本質とは なんだ?」と つきつめつづけた人間にとっては、
真実であるように思います。
かなしいほどのです。
人というものを語るのであれば、
季節を重ね、大人となっていく「人」というものを みるのであれば、
「酒」と「肉欲」というものは、
避けては通れぬようにさえ思います。
たしかに、 それぞれによるのかもしれませんが、
すくなくとも、わたしはそう思います。
すくなくとも「愛欲」は・・・
肌のぬくもりほど、こころを ゆりうごかすものはありません。
限りなく 愛に近い唇ほど、 こころにしみるものはないのです。
だからこそ、
くるしい。
かなしい。
くるおしい。
こころは、しめつけられつづけ、
欲なのか、 真心なのかと、
己を責めつづけ、苦悩するのです。
こころを、
純粋な まごころを、 と
思えば、思うほどに。
肉を伝わる、
その「酒」の、
「愛欲」の、
体感の まがまがしさに、
しみいる衝動に、
想いは、
ゆらされつづけるのです。
そして、また、わたしに至っては、
「孤独感」というものも、くせものです。
ソレも、こころといものの底から、
伝わり、はいりこんでくるのです。
もはや、本来あった、自分の「こころ」というもの、それ自体さえ、
なににとれわれ、つき動かされているのかさえ、
わからなくなってきます。
体感という、外からの伝わりと、
孤独感という、内からの侵食に、
わたしの こころは、ゆらされつづけているのです。
もはや、こころは なに想うているのかも、
己では、わからなくなるほどに。
ワタシというものの 本質たるものを、
つきつめ、簡潔に、 表現するとするならば、そういうことです。
これがワタシという人間においての 独白です。
わたしは まだ 生きていくと思います。
さまざまなことを 感じながら。
光を求め、 光を感じ、 それを乞いながら。
そのとき、ワタシの人生にとっての
カンタンなキーワードは なにかと言えば、
「孤独」
「こころ」
「愛欲」
「酒」
「光」
いうなれば、これは、まさしく、
暴露です。
これが ワタシです。
すべての詩のテーマは これだと言っても 過言ではありません。
これらに、からまりながら様々なことを想っていきます。
光も。
闇も。
「まごころ」でありたいと 願うのです。
詩を 想う
死を 想う
シヲ オモウ