カピバラの事情
佐野権太
一、 銀色の背中
飯も喰わずに、カピが月ばかり見ているので
座敷に上げて訳を聞くと
長い沈黙のあと
神妙な顔で
片想いなのだという
いったいどこの娘かと問えば
まだ逢ったこともないという
風が運んでくる匂いに
心を奪われてしまったのだと
カピは視線をそらさない
そんなこともあるのかと
首をひねりながらも
綱を解いてやると
ぺこぺこ、手ぶらで行こうとする
呼び留めて
戸棚から好物の
ココナッツビスケットを出してやると
細い指先で器用に、一枚
思いついたように、もう一枚
大事そうに胸に抱えた
いよいよとなって
漆黒の瞳を潤ませるので
月あかりに染まる
カピの柔らかい脇腹を
何度も撫でてやった
二、 土産
カピが女房と
六匹の子カピを伴ったのも
月の綺麗な夜だった
(その節は、主人がお世話になりました
女房は律儀にひざまずき
ココナッツビスケットの箱を差し出す
遠慮したが
女房は身体を伏せたまま、びくともしない
後ろで子カピたちが
じっと様子をうかがっているので
苦笑しながら受け取った
*
昔話に花が咲いた
女房は積んでおいた洗濯ものを
黙々と畳んでゆく
子カピらはその横で
鞠のように、じゃれている
先程貰った土産を広げてやると
どうしたわけか
カピは手を伸ばそうとしない
肩越しの
女房と子カピらが
ピタリと動きを留めている
その顎から一様に
よだれがだらだら垂れていた
まだあどけない前歯で
行儀よく並んで
カリカリかじるのを見ながら
(いい女房じゃないか
耳打ちすると
カピは心地よさそうに目を細めた
三、 恋風
カピの武勇伝は杯を重ねるごとに
尾ひれがついていく
あげくに
まだ独りか、とか
優しいばかりじゃ駄目だ、とか
生意気を放ちながら
ついに、酔い潰れてしまった
蛸みたいに重たいカピを
部屋の隅まで引きずっていく
あの日と同じように
月あかりが
優しいかたまりを
銀色に照らしている
そっと寄り添い
ぬくもりに鼻先を沈めて
安らかに奏でられる
幾重もの旋律を
ひとつ、ふたつと数えていく、うちに
いつか、ふわり
*
独り、水辺の草原にたたずんでいる
湿った風が頬の曲線を
柔らかく乗りこえてゆく
その奥に
儚くただよう、微かな香り
に紛れて
また、ふわり