驟雨或いは詩についての覚書
panda

 図書館で『アンチ・オイディプス』『特性のない男』『謡曲集』を借りるが、突然の豪雨に襲われる。
 それはそれとして、今更ながらにドゥルーズ=ガタリは面白い。読み始めたばかりだが、壮大な散文詩と言えなくもない。

 詩を書く人は、詩の現在の地位に不満を持つものであるらしい、私には良く分からない。
 今日、小説が文芸の盟主であり帝國であるのは、小説が常にそれ自体を包摂し得る様式だからである。小説作品は内部現象を常にその内部で分節しパラフレーズしていくことができるが故に、常により多くの理解とそれに基づく了解を志向することができる。そして、理解が多ければ多いほど了解の閾値は低くなる(それ故、容量の肥大化は小説に於ては自然な現象である)。分節的理解と了解の量が今日文芸に求められているものであれば、小説ほどそれに適しているものはない様に思われる。
 短歌と俳句が現在なお存続しているのには、無論様々な理由があるだろうが、それらが簡潔な定型であることはやはり主たる原因であろう。両形式共に、常に現実――内的と外的とその単一と――を短い定型へと再構築するが故に、(しばしば単にイメージと呼ばれるところの)現実の豊潤と言語の鋭利でもって人間の精神となることができるのである。
 では詩は?詩が弛緩した定型でも衰弱した散文でもないのであれば。
 詩が現に直面している限界――純粋に音楽的でもなければ、分節的理解の連続体でもなく、厳密な規範性もない――とは、まさしく言語自身の限界である。詩は単に言葉を用いるのではなく――そもそもであれ最終的にであれ――言葉に最も近い技芸である。
 言語ソノモノデアレ!
 無論、言葉の機能は駆使されなくてはならない。だが、詩が言葉に寄り添うものだとしても、言葉の機能が詩の目的となる訳ではない――作品の動機が言葉の機能に発することは自然であるにしても。詩の目的は、独断的に言って良ければ、言葉の自由に於て言葉が美しくあること、である。


散文(批評随筆小説等) 驟雨或いは詩についての覚書 Copyright panda 2006-08-22 23:00:09
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