「踏み切りの前に立つ人」 〜原民喜「心願の国」を読んで〜
服部 剛
昨日は寝る前に、原民喜の「心願の国」を読んだ。被爆者である
彼は、自らが作家・詩人であるという使命感から、その体験を書き
遺した。戦後間もない頃、母も妻も失い自らに残された弧絶の夜を、
彼は歩いていた。自らの前を遮るように下りて来る踏み切りの前に
独り立っている情景を、彼は次のように書いている。
電車はガーッと全速力でここを通り越す。
僕はあの速度に何か胸のすくやうな気持がするのだ。
全速力でこの人生を横切ってゆける人を
僕は羨んでゐるのかもしれない。
だが、僕の眼には、もっと悄然とこの線路に
眼をとめている人たちの姿が浮かんでくる。
人の世の生活に破れて、
あがいてももがいても、もうどうにもならない場に
突落してゐる人の影が、いつもこの線路のほとりを
彷徨ってゐるやうにおもへるのだ。
だが、さういふことを思い耽りながら、
この踏切で立ちどまってゐる僕は、
・・・・・・僕の影もいつとはなしに
この線路のまはりを彷徨ってゐるのではないか。 *
この文を書いて後、彼は踏み切りの中の線路の上に横たわり、自
らの命を絶った。現代を生きる私達も、絶望的な戦中・戦後を生き
た作家・原民喜とは異なる心の闇を抱えて生きている人は多いと思
う。自身が被爆者であり母も妻も失った彼の、弧絶の夜の深さを心
に抱えた希望無き日々を思う時、私は自らの日常の悩みよりも遥か
に激しく引き裂かれた悲鳴が過去にあったことを知り、何故か心の
内に「生きていかねば」という一つの決意が湧いて来るのを感じる。
自らが望むこと無く生まれた悲劇の時代に、心を打ち砕かれた人の
短い生涯の哀しみを、無駄にしない為に。
明日も群集は、無言の行進を続けるだろう。
見上げた真空の空には今も、
五十五年前に地上を去った詩人がいる。
丸い眼鏡をかけた色の白い彼が、
それぞれの日々へと立ち向かってゆく人々に
眼には見えないバトンを渡そうと、
二十一世紀の地上に手を差し伸べている。
* 原 民喜詩集(土曜美術社)より引用しました。
文中の敬称は略しました。