続々々レレレのレッ!
佐々宝砂

または未来人ラツキの警告。恐るべき未来言語「ら付き」言葉を知らない人は、「続々レレレのレッ!」を読んで復習しておくように(だんだん態度がでかくなってきたぞ)。

レレレのレッ!
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さて「日本語を母語としない人」対象の日本語文法を見ていて、私は、なんだか気持ちわるくなってきた。当たり前のことだが、その日本語文法はやや単純化されている。一段動詞として統一された上一段と下一段の区別を復活してなお、例外や問題がいっぱいある。たとえば、「見える」「聞こえる」などの他動詞や自発の動詞をあのルールでは説明できない。また、「見る」「着る」など語幹一音の上一段動詞の使役形「着せる」を説明できない。ああもう面倒くさい、そもそも「活用」なんてものがあるからいけないのよ、活用なんかやめちゃいましょう。もっともっと単純化してしまいましょ!

という「単純化日本語」に関する文章を、先人が書いている。井上ひさしの戯曲『国語元年』。日本共通話言葉のために「聞くます」だのなんだの、わけはわかるが気持ちの悪い官製日本語を創案しようとした男の悲喜劇。かなり笑える。日本語について考えさせる。読んでない人は読んでみて下さい。

井上ひさしに倣って、私もきわめて単純化した日本語というものを考えてみた。まず、五段活用・下一段・上一段と3種類も活用があるのはめんどくさいから、ひとつにまとめてしまう。「書く」「呼ぶ」など「る」で終わらない単語があるのはややこしいから、全部「る」をつけて統一する。未然形・連用形・仮定形なんかあると複雑だから、全部同じ形、連用形で統一しちゃう。受身はもちろんすべて「られる」、可能はすべて「れる」、使役はすべて「させる」。つまり、こうなる。↓

・極単純化日本語の動詞活用
基本 語幹+る
「まわる」「隠しる」「食べる」「見る」

過去 語幹+た
「まわた」「隠した」「食べた」「見た」

否定 語幹+ない
「まわない」「隠しない」「食べない」「見ない」

仮定 語幹+れば
「まわれば」「隠しれば」「食べれば」「見れば」

受身 語幹+られる
「まわられる」「隠しられる」「食べられる」「見られる」

可能 語幹+れる
「まわれる」「隠しれる」「食べれる」「見れる」

使役 語幹+させる
「まわさせる」「隠しさせる」「食べさせる」「見させる」


やー、すんばらしく単純だ。こんなの日本語でないって? うん、そーかもねえ、でも、政府がこれぞ「正しい日本語」とお墨付きをくれて、学校でこれこそ「正しい日本語だ」と教え込んで洗脳しちゃえばいーのよ、それで全国統一単純化日本語がちゃんと津々浦々まで行き届くとゆーものよ。ふふふふ。世の中なにが正しーって、お上ほど「正しー」ものわ少ないのだ。この際だから、仮名遣いも単純化してみました。もーここまで来ればどーでもいー。いくとこまでいきましょーって感じー? てなわけで、私は、独裁者のごとく寛大になってきた。そのうち、「世界にいろんな言語があるからいけないのよ、使う人も多いことだし、全世界を簡潔なピジン英語で統一しちゃいましょー!」と言い出しかねない。

「正しさ」なんてものは相対的なものだ。独裁者が「正しい」と言えば「正しい」。無理が通れば道理は引っ込む。いや、無理が道理になって、道理が無理になる。「食べれる」という可能の表現が正しくなれば、今度は「食べられる」という可能表現が間違ったものになる。「行けれる」が正しくなれば、「行ける」という可能動詞は消える。「隠しさせる」が正しい世界では、「隠せる」「咲かす」などの他動詞は存在しなくなる。そんな大げさな!とおっしゃいますか? いや、私は大げさではないと思う。すでに「見られる」という可能表現を間違いと感じ、「ら抜き」の「見れる」こそが正しいのだと感じる人種があらわれている。我が夫が「未然形+可能助動詞れる」を間違いと感じたのも、同じような独断だ。「電子レンジでケーキは焼かれない」は、電子レンジのない時代には正しい言い方だった。今でも「行かれない」「言うに言われぬ」「やむにやまれぬ」などの言い回しのなかで、「未然形+可能助動詞れる」という形が生き残っている。しかしそうした古めかしい言い方をする人が少なくなったので、間違いと感じられるようになってきたのだ。お上よりも「正しい」ものは「多数決」である。かくして古めかしい言語を使う少数者は、ひっそりと消えゆく。

なんて諦観するわけないだろ、この私が。そもそも「正しさ」にこだわるなんてガラじゃない。なんでもありにしてしまえ。ややっこしくてもいいじゃん。可能の「行ける」「行けれる」「行かれる」、新旧のかたち全部OKにしてしまおう。その方が豊かでいいじゃん。「ら抜き」「れ足す」「さ入れ」全部あり。もちろん学校文法でいうところの「正しい」活用あり。「きれいくない」というでたらめ形容詞もあり。「思うです」あり。「美しいです」あり。「ありますん」あり。「ラーメンになります」もあり。「××円からお預かりします」もあり。「○○になっております」もあり。すべて、あり。もうあなたさまがどんな言葉をどう使おうと私は認めます。認めるからさ、私が何をどう使おうといい、ということにしてよ、お互い様でしょ。

と、これだけ書いて、今度こそほんとにすっきりした。

「ら抜き」が登場したとき、私は気持ち悪いと感じた。私の感覚では、それは「間違い」だったからだ。しかし「ら抜き」が多数となれば、私は「ら抜き」を認めざるを得ない。「れ足す」が多くなれば、同様に認めざるを得ないだろう。そこまではなんとか我慢できる。でも、でもでもでも、私は「ら抜き」を使いたくない。まして「れ足す」は使いたくない。「さ入れ」なんて冗談でなきゃ言わない。一方私は、「言うに言われぬ」などの古い言い回し「未然形+可能助動詞れる」が好きだから使いたい。そういう私の言葉遣いを、「古い」ならともかく、「間違ってる」とは言ってもらいたくはないなと思うのだ。


「続レレレのレッ!」で矢継ぎ早にあげた例文について次回もういちど考えて、それでこのシリーズはひとまずおしまいといたします。




散文(批評随筆小説等) 続々々レレレのレッ! Copyright 佐々宝砂 2004-03-01 17:14:32
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