詩とメルヘンと私
umineko

今よりもずっとずっと前…詩を書きはじめてしばらくの頃、友人から「雑誌に投稿してみない?」って言われた。彼女はその何年か前に「詩とメルヘン」という雑誌に掲載されたことがある。掲載されたその詩にはイラストがつき、その華やかなカラーの紙面と相まって、なんだかきらきらしてた。「ねえこれ私じゃないみたい」と、彼女はくすくす、笑った。

それから何回か投稿したけれど、まったく感触がないっていうか、雑誌から愛されているという気配がさっぱり感じられなかった。何度か掲載を果たしているネット友だちに、(ぜんぜーん、脈がないんだけどー)ってぶーたれたら、(うみねこさん、メルヘン書かなきゃ。メルヘンじゃないと駄目みたい、あそこは)って言われた。

メルヘン。

中也の詩に「一つのメルヘン」というのがあるが、あれはたぶん一種の反語。川底に、水が、さらさらと、さらさらと流れていくさまを中也は書く。それをメルヘンと名付ける態度が私は好きだ。ちっとも、メルヘンじゃない。そこにあるのは、光。

暖かい作品は、だけど嫌いではない。殺伐とした慟哭や咆哮なんかよりも、むしろ好ましいと思ってる。もちろん、怒りや不満を詩にぶつける、というのはある意味正しいと思う。だけどそこで閉じているから。時々、息苦しくなる。そういった類いの作品は。

「詩とメルヘン」の掲載作品を読んでみると、どれも同じトーンで出来ていた。雨の窓辺かなんかで(想像)、恋人の手紙を待つ私(出来るか、んなもん)。踏み切りで小首を傾げて(だから?)、小犬の瞳を見つめる自分(見たことないし)。

きっと、私の生活の中にメルヘンがないのだ。ネット友だちは言う。(まーそれっぽく書くしかないんじゃない?)それができないから困ってるのに。

ネット上にも、メルヘンな詩は花盛りだ。悪くないな。やさしい気持ちになれるし。とやかく言う人もいるだろうけど、それさえ別に気にならない。

だけどさっぱり書く気がしない。

メルヘンでもなく、慟哭でもない。自分は何を書いているんだろう、と、時々思う。とても小さな物語を書いているのだろう。半径数メートルの世界。それさえも、コントロールできない自分。

太宰治の「桜桃」を、御存じだろうか。私はあの作品がとても好きだ。コントロールできない自己を、じっと見つめること。

私の中にメルヘンはいない。それを私は恥じたりしない。
私はこうして、ネットに立つ。

ただそうしていたいだけ。
 
 
 


散文(批評随筆小説等) 詩とメルヘンと私 Copyright umineko 2006-07-17 21:50:06
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