何度目かの遺言
蒸発王
旅先で
必ず訪れる旅館があって
其の庭には
花をつけない
見事な桜が佇んでいた
花をつけないのは
私のせいなんですよ
と
其処の女将は笑う
彼女は下働きの仲居から
ここの一人息子と結婚し
すぐに夫が死んだので
首尾良くと言うか
何と言うか
玉の輿によってこの旅館の女将となった人だった
だから色々な嫌がらせが耐えなくて
長い事
苦労したらしい
毎日毎日
もう駄目だと
明日の朝には起きずに
死んでいたらどんなに楽かと
毎晩毎晩
寝る前に遺言を遺したんです
誰にも言えなかったから
庭の桜の木に ね
いつからか
遺言を告げられ続けた桜は
花をつけなくなったという
遺言はもう日課だと
笑う彼女には
昔あったであろう陰りは無く
結い上げた白髪が
少しの憂いを秘めて
上品な白金に輝いていた
夫に先立たれても
なお
この旅館を継いだのは
何より
女将がこの宿を愛していたからだろう
其れを支えた
花をつけない桜の木が
私は
少し羨ましかった
****
久しぶりに訪ねると
女将は庭の桜が見渡せる一室で
病床についていた
私が見舞うと
彼女はころころと
花のように笑った
遺言の日課は
まだ続いているらしい
不躾ながらも気になって
どんな遺言か聞いてみた
あら
昔から同じ遺言なんですけども
お客様には何時も言っている言葉ですよ
恨むことなど
空しいだけ
一生懸命になれば
自分の非力が良く判る
だから
この世の感謝をこめて
ただ
一言
(−お元気で−)
******
初春の夜明け
何度目かの遺言を呟き
女将は旅立った
ふと
濡れた瞳で
庭をみると
あの桜が
何度目かの遺言を受けた
桜が
何年も
花をつけなかった
桜が
一気に
満開の花をつけていた
はらはらと
散らす花弁の
其の数が
彼女が告げた
遺言の数のようでもあり
涙 を
流すようでも
あった
(−お元気で−)