未詩ということ
黒川排除 (oldsoup)

 ぼくは未詩というものをついぞ書いたためしが無い。というのは別に、はっきりさせておけば未詩を書く人への軽蔑でもなければ書く気をなくさせようという意味を含んでいるものでもなくて、未詩というカテゴリーに抱く懐疑的観念がそうさせるのだ。既に片野さんによる一定の説明、『未詩とは、未だ「詩」ならざるもの、という意味の造語です』というものがありながらこういった事を考えるのは邪道のように思われるかもしれないけれど、そのような批判をある程度想定しながらも、ぼくはぼく自身の為に、それこそ『「ひとりごと」に近い』見地から書こうと思っている。
 さて、未詩というものを考えるにあたって、詩の定義をするのは少々回り道であり、なおかつ、それこそぼくの立場をあやうくしかねないから、ここは詩というものを基準にした未詩というものの相対的な位置を探っていきたい。つまり違いだ。詩というものに対して未詩はどういう距離の取り方をしているのか? 今ほど引用した文によれば『「詩」のジャンルはちょっと雰囲気が合わない、または、詩というよりも「ひとりごと」に近いと自他共に認めるテキスト』と定義されている。雰囲気とは何か。我々詩人はことごとくが気分屋であるがゆえに日常を排してまで詩という雰囲気を書いている。だが雰囲気を二乗してまで意味内容を霞の向こう側へ放り投げようとするものではない。丁度その日の気分で買うゲームを決めようとしているのに、こんにちのゲームときたら、たかがRPGという一つのカテゴリーのくせにそのうえ「近未来」とか「コミュニケーション」などと書かれていて、説明の足り無さを無理矢理に補おうとしている醜さに購買意欲を無くすぼくの実体験のようなものである。話が逸れたが意味内容を難解にすることは意味内容を薄めることではない。意味内容を元に表現が為されるからといって、表現の形式でひとつの意味内容が変化する訳ではないのだ。だがその逆はそのようには見えても全くその通りではない。似ている表現の形式が実は全く違う意味内容をさすこともある。ぼくのやろうとしていることはそれだ。
 まず、意味内容を別にすれば詩と未詩の違いは「未」の部分があるかないかである。未、とは何かといえば、打ち消しの接頭語ではあるが、「無」や「非」のように全部否定するものでもない。即ち、未完成未確認未解決未成年。いずれはその状態へ向かうことを前提とした上で今その状態でないことを示しているのである。よって未─詩という接続は適当である。だがその否定的な語感がそのままネガティブなイメージを抱かせる危険もある訳で、それは切除されなければならない。(ぼく自身も未詩というカテゴリーを見た時は形成途中の詩でも投稿して完成に至る経過を観察するのだろうかと思っていたが)この時点でも断言できることは、未詩とは未完成の詩ではない、ということだ。未完成、発展途上、書きかけの詩。そういったものは作者の手元にあるのが当然でむやみやたらと見せて回るものではないし公表などはさらにすべきでない。ある人が未詩に対して投げ掛けたコメントを見た時がある。ある人、というのはぼくが思い出せなければ探そうともしないだけであってこれから言う事は決してその人を攻撃するものではない。その人はその未詩に対して、「この詩が完成する時を楽しみにしている」という感じのコメントを寄せていた。それを見た時にぼくははっきりと、未詩とは未完成の詩ではない、と感じた。
 先程も述べたように未詩とは、いずれはその状態へ向かうことを前提とはしているが、実際に向かうかどうかという明確な表現を避けているところに未詩たる所以がある。未詩は未詩と名乗る限り完成を目指しているものではない。走っているバスがあり、その情景は明らかに提供されてはいるが、運転手も乗客も目的地がどこかということを意識してはいけないのだ。詩として書かれている限り存在していた圏域を打ち砕き、提示された真実に対する距離をさらに縮めようとする動きが未詩の在るべきところである。それを書き手も読者も意識しなければならない。書かれた未詩が時折酷く歪んだ文章であったり、意味を成さない日本語であったり、それが日本語ですら無かったりするのはその為だ。またわがままを言わせて頂けるなら、作者の意識は直感的なそれでなければならない。ありふれた言葉のつながりはもちろん、時には日本語として通じる最低限の構成さえ踏みにじらなければ、未詩という中にはぐくんだ気まぐれな態度を読者に見せつけることはできない、とは言わないまでも、保証できない。
 最後になるが、ぼく自身は、未詩というカテゴリーに否定的な観念を持つ者のひとりではない。要するに今、自己弁護に走っている訳だが。未詩を投稿する者に余計な圧力を与えようとか、未詩の成り立ちをちょんぎってやろうとか、今想定される非難の声を必死に数えているが、そういう訳では断じてない。ぼくが未詩をひとつも投稿していないのは、それに値する作品を単に書けてないだけだし、ぼくは詩の発展とともに未詩の発展も願っているひとりで、できることなら自らの懐疑的観念とともに未詩に関する言語上の否定的なイメージを取り除きたい、と考えたまでなのだ。よって、こう位置付けたい。未詩とは、言語という形式のもとで完全な形を求められぬ挫折に対して詩人が考え出した新しい接触方法である、と。
 
 ※それでも不快に思った人がいるなら、ごめんなさい。いつまでも意気地のないoldsoupでございました。


散文(批評随筆小説等) 未詩ということ Copyright 黒川排除 (oldsoup) 2003-07-27 15:01:41
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