いつまでたっても分からないことについて
宮川三太郎から

こんにちは、鼻子です。ポイント制度とかの話、おもしろいよね。あたしは、詩人じゃないし、詩も書かないので、詩の良し悪しなんてわからないし、興味もないんだけど、ポイント制度には興味があるのね。興味があるというか、なんてたって、旬なネタだからね。知ってる人も多いと思うけど、この手の話で必ず登場するのが「ゴミ箱モデル」ね。簡単に言うと、あいまいな状況下で行われる意思決定は、合理的なプロセスを踏んでいない、って言うの。「あいまいな状況」を発生させる制約条件については、いろいろあるんだけど、ここでは、あんまり関係ないと思うんで省略するけれど、「ゴミ箱モデル」的に言えば、ポイントを入れるという行為は、必ずしも合理的なプロセスのもとで行われているわけではないってことね。あたしがおもしろいと思うのは、この「ゴミ箱モデル」って1972年に提唱されてんだけど、要するに、まだ、今日迎えているような情報化社会を想定した話じゃないわけ。あたしたち取り巻く環境ってのは、メディアの多様化によって、とんでもない量の情報が毎日押し寄せるわけ。それが、ゴミかゴミじゃないか判断するのに、いちいち合理的なプロセスなんて踏めるわけないわよね。あたしたちは、何も選んでいないのよ、って言い換えた方が現代詩的かしら。でよ、何も選んでいない、何も選べないあたしたちがどうするかっていうと、論理に拠らない感情共同体を形成しちゃうのよ。論理的と感情的、この二つの大きな違いって、時間よ。論理的にあろうとすれば、時間を食っちゃうの。感情的ならば、その逆ね。ここの概念を専門用語で言うと「時間の節約」って言うんだけど、じゃ、なんで、昔も今も、あたしたちに与えられた時間は同じはずなのに、今のあたしたちが時間を節約しなきゃいけないのかっていうと、それは、あたしたちが膨大な量のアウトプットを求められてるからよ。ま、そのアウトプットが新しいインプットになるんだから、アウトプットが求められているのか、インプットを求めているのか、なんてどっちでもいいんだけどね。なんか、話が急速に情報資本主議論的なとこに収束しちゃって、眠たくなっちゃたわね。とりあえず、「制度」としての情報資本主義は置いといて、じゃ、「私」に何が起こってるのよ。そうね、スーザン・ブラックモアの著書『ミーム・マシーンとしての私』を拝借してみるわね。ま、大昔に流行ったドーキンスの『利己的遺伝子』がベースなんだけど、それにしても、ミームって懐かしいわね。で、ブラックモアは、こう言うの、あなたは一人じゃないのよ、あなたは複数いるの、って。何のことかわかるわよね、もちろん、ここでの「あなた」は、「あなた」を単なる乗物としてしか思ってない、その「あなた」に複数の「あたし」が出入りしてしまう、「ミーム・マシーンとしての私」の完成ね。おっと、時間がなくなったので、続きはあとでね。あ、続きの前に、あれがわかったとか、これがわからないとかって、正しい反応だと思うわよ。だって、わかったりわからなくったりするのが、人間だもん。わからなかったことがわかるようになったり、わかってたことがわからなくなったりする。あたしの場合は、後者が多いわよ。わかってたことがわからなくなったりするの、毎日ね。


散文(批評随筆小説等) いつまでたっても分からないことについて Copyright 宮川三太郎から 2006-05-25 12:43:49
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