論ずるより書けとは御尤も
きりえしふみ

<前文>論ずるより書けとは御尤も、かと思います。論ずるのは専門外ですし、例え中傷を受けようとも毅然と書いている方が粋だと思います。ですから、此方での発言者として考えを投稿するのは一度きりにしようと思います。
 これを読むに当たって、皆さんに申したいことがあります。
 私は先人を悪く言う方には批判的ではありますが、私とて、彼ら先人が残した全ての詩が傑作であるとは思っておりませんし、全世界の全ての先人の詩集を余す事無く読んだ訳ではありません。日本なら中原中也、立原道造、外国の詩人ならゲーテやシェイクスピア、ヘッセ等の詩は目にした殆どが素晴らしいと感じましたが、その他は一部が好きである場合も、読んだ半分位が好きである場合もあります。しかし、現在詩というものが残っているのは、先人の詩人のお陰であるということは、疑いようの無い事実です。ですから、先輩方を私は一人として否定したくはありませんし、否定する方こそ、例え無言の内に思うだけであっても、否定します。とはいえ、ご本人の人間性や詩作品を否定しようとは考えておりません。ご本人も何か考えることがおありだと思うからです。ただ、先人を否定するその考え方のみを否定させて頂くだけであります。
 また、web詩人でも、この方の作品の殆どが傑作である!と感じる方もいらっしゃいます。ですから、web上と言えども真剣に書かれている方を否定するような部類の人間の括りに入れられるのは、真っ平ごめんであります。特に、web上で書いていらっしゃるHさん程、私が尊敬する詩人は、現在生きている玄人と言われる詩人の中には存在致しません。
 また、討論を避ける為、本来エッセイであるものを独白とさせて頂きます。私は他方を排除する為や排除し合う為に詩人である訳ではないからです(↓本文です)

  「プラスにする方程式こそ用いたい」
 私はとても不思議に思う。web上の詩人だとか、本で書いている詩人だとか、過去書かれたとか、現在書かれたものであるとか、関係なく、立ち位置が違っている同士であっても、「心を込めて書く者」同士なら互いに美点である所は美点と認め、手を握り合う所は握り合って、詩を豊かにして行かなければならないのに、どうして、読もうとしている所で未だ詩を余り読んで居ない人を無学だとか馬鹿にする人がいたり、本を出している人を偽者と言う人がいるのだろう?
 そんな事をとやかく言うべきは純粋に読んでいるだけの読者サイドであって、読むけれど書きもする詩人は、他方を切り付けるべきではないと思う(大体こういう論じ合いは始めたら切りが無いだけだ)。
 自分が「気に入らない」敵と決め付けた相手を否定して、削除しようとするのは簡単だ。でも、その相手に本当にたった一つでも褒めるべき箇所がないと言えるのだろうか? 例えば、その相手の作品を見ることで、素晴らしいセンスを開花させる、あなたも認める詩人が生まれないと、あなたは言い切ることができるのだろうか? 否定することで、否定する側も責任を持たなければならない事実を踏まえた上で、言葉を組み立てる詩人が残酷な表現を用いて、何を生み出そうと言うのか。 また、あなたの気に入らないその詩人が、将来素晴らしい詩人に成長するわけがないと、言い切れるのだろうか?
 はっきり言って、現在、「詩」を書く人間同士が揉め合う程、「詩」という一本の木は頑強でもなければ、太ってもいない。そんな事は、本屋へ行けば分かる(私が以前別のペンネームで出したメルヘン詩も、見に行ったある書店では五冊しか置いていなかった。そこは中社だったから、まだ置いてくれたのだろうが、置いてある書店で五冊であって、取り寄せしなければならない書店の方がずっと多い)。趣味を含め書いている人は多くても、この現状なのだ。
 この現状で、考えも好むものも異なっていたとしても、同じ書くことを本気でする者同士が相殺し合おうとして、いいことなんて一つもない。無関係な人が見たら、「同志討ち」と見なされるだけだ。
 一人が一人を傷つけた事で、「詩」という大樹が今以上に痩せないとも限らない。「詩を追放するのは詩人である」と、ゲーテの格言が警鐘を鳴らしている。闘うべきは書いている者同士ではなく、文化を未だ復興することが出来ていない社会の現状であるように思う。

(c)shifumi_kirye 2006/05/11


未詩・独白 論ずるより書けとは御尤も Copyright きりえしふみ 2006-05-11 02:20:51
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