地蔵前
みつべえ

ここは何処でもないところ
かつて私が暮らし
いまも 少年の私が
棲んでいる町


 ※



 森の向こう側へ大きく曲がっている道なりにトモコが姿を現した。固い雪の面をキュッキュッと踏み鳴らしながら歩いてくる。紺色の厚手のコートにオレンジとイエローの襟巻き。テキストをいれたカバンには鈴のアクセサリーが付いているらしく、彼女の身体が道の起伏に揺れるたびに可愛らしい音をたてた。
「お地蔵さん、おはよ」
 トモコは白い息を吐きながら地蔵のツルツルした頭を二、三回かるく叩いた。朝の挨拶。
「今朝はすごくシバれたのよ」
 言いながら白い息をわざと地蔵の顔面に吹きつけた。これも朝の挨拶。
 地蔵は鼻の穴を大きく開いて少女のあまやかな口臭を嗅いだ。ライオン歯磨き粉の匂いがした。
「なんだか首のところが寒そう」
 トモコは襟巻きをはずすと地蔵の首に巻きつけた。「バスがくるまで貸してあげる」
 それから照れくさそうにカバンからリボンの付いた包みを取り出した。
「なあんだと思う」
 手にもった包みを地蔵の目の辺りにチラチラさせた。地蔵はまた思いきり匂いを嗅いだ。なつかしくて甘い匂い。チョコレートだ。
「あたしの手づくりよ」
 トモコは地蔵と同じ目の高さにしゃがんだ。するとコートの裾がずり上がって制服のスカートの端が顔を出した。地蔵の眼前にトモコの大きな瞳があった。寒気に朱を浮かべた頬。それが次の瞬間にもっと濃い赤に染まった。
「コータのアホにあげるの」
 地蔵はその名に覚えがあった。もう何年も前になるが、そんな名の悪ガキがいた。そういえば小学生だったトモコとよく一緒に遊んでいたな。いたずら好きのとんでもないガキだった。いつだったか、あろうことか顔に立ち小便されたことがあった。そうか、トモコはあのガキと付き合っているのか。気がつかなかった・・・
「お地蔵さんは、やっぱし仏教徒だから興味ないと思うけど、今日はバレンタインデーなのよ。バレンタインデーって、知ってる? あのね、大昔に、キリスト教を信じるバレンタインという国があってね、ほら、大昔だから砂糖がまだ少なくて、甘いものがとても貴重な時代だったそうなの。だからチョコレートは最高の贅沢品でね、はれがましい、ここぞというときにだけ、とくに贈答品として使われたらしいの。それが、そのうち男と女の愛の告白に使われるようになって現在に至ったというわけ。つまり、一年に一度だけ女の方から男に愛をうち明けてもいい日なの。それもチョコレートを渡すだけでオッケーなのよ。その場合とくに手づくりの方が御利益があるの。わかった? 」
 トモコは一気にまくしたてた。毎朝のことなので地蔵は気にしていない。五、六年前に大好きな父親が病死してから、ずっとこの調子だった。トモコがこんなにペラペラ喋るのは地蔵の前でだけだった。他の場所ではおとなしくて目立たない娘なのに、毎日よくもまあ口からデマカセを言えるものだ。しかし地蔵はトモコのホラ話を聞くのが好きだった。それにときどきトモコは本当のことも言う。なにしろ手づくりのチョコレートだからね。微笑ましいな。地蔵はうっかり頬の筋肉をゆるめてしまった。
「あーっ、いま笑ったなー、こいつー」
 トモコは拳で地蔵の頭を小突いた。
「痛てて、やっぱし石頭だあ」
 そこで溜め息をひとつ。
「バカみたいだな、あたしって・・・」
 ひとり芝居からさめたトモコはプレゼントの包みを胸のところで強く抱いた。
 地蔵はちょっと首をかしげた。
 人間って不思議だな。石の彫り物が笑うはずがないと頭から決めつけている。
 バスが来て道をはさんだ地蔵の対面に停った。ということは午前八時。
「じゃあね」
 トモコが飛び乗るとバスは何度もエンジンをふかしながら発進した。もの言わぬ運転士が地蔵に手をあげて挨拶した。地蔵もうっかり手をあげて挨拶を返した。
 バスが行ってしまうと辺りは急に静かになった。一面の雪に朝の日差しが反射しているばかり。今日は昨日より暖かいなと地蔵は思った。とくに首のまわりが。
 それもそのはず、地蔵はまだトモコの襟巻きをしていた。オレンジとイエローの縞模様の襟巻き・・・

一時間後、バスは終点からユーターンして地蔵前に戻ってきた。流氷を見にきた客が二人降りた。お揃いの厚手のヤッケに登山帽子。はちきれんばかりに膨れたリュックサック。駅の改札口を抜けるとき背負った荷がじゃまになり、まっすぐにではなく横になって歩くので、カニ族と呼ばれる若い旅行者たちだ。
「見て見て、かわいい!」
「きゃあ、嘘みたい!」
 二人は地蔵の襟巻きに気がついてはしゃぎだした。かわりばんこに地蔵の隣りに立って何度も写真を撮った。そして、きゃいきゃい喋りながら、さっきトモコが来た道を森の向こうへまわり込むようにして歩き去った。地蔵の位置からは見えないがすぐ近くに海の方へ出る脇道がついているのだった。
 この時季に流氷を見に来るなんて物好きなこった。ついでに露天風呂に入るつもりなんだろうが・・・。地蔵はやれやれというふうに肩をそびやかした。

 密生した枯れ笹の間の狭い雪道を行くと、海岸を見下ろせる高台に出た。そこに観光客のために町民が設営したヤグラが組んであった。
「ガイドブックのとおりだわ」
 ユカリは板の螺旋階段をかけ上がった。海から吹きつける風と、ここ二、三日つづいた快晴のおかげでヤグラの上には雪も氷もなかった。
「待ってよお」 ノンが後から息を切らして追って来た。
 二人は一番てっぺんまで上がると目の前の光景に息をのんで佇んだ。海には無数の流氷がせめぎあって浮かんでいるはずであった。しかし、二人の目に映ったのは水平線の彼方までつづく雪の平原だった。二月の初めに接岸した流氷の上に降雪が何度も積もった結果だった。この時季に絵葉書で見るような流氷の姿を期待する方がどうかしている。
 二人は同時に溜め息をついた。そして憑かれたように前方に広がる白い荒野に見入った。
どのくらいそうしていただろう。ふいにユカリが言った。
「ごめんね、ノン」
「えっ、なにが?」
「こんなところまで付き合わせてさ」
「いいのよ。こんな風景は東京では一生お目にかかれないわ」
  ユカリは小さくかぶりを振った。
「ちがうの。そうじゃなくて、あのさ、あたしの傷心旅行についてきてくれて、ありがとう、って言いたいの」
 ノンはすぐには応えず少し間をおいた。慎重に考えてから、きっぱりと言った。
「忘れなよ、あんな男のことなんか」
ユカリは、ふふふっと笑った。
「いつもながら力強いお言葉。おかげで元気がでるわ。ノンのそういうとこ好きよ」
「同性に好きって言われてもなあ」
 二人は笑いながら、おもむろに階段を下りた。来た道を戻りながらノンがガイドブックをめくった。
「『地蔵の湯』。ここから徒歩五分だって」
 来る途中に見かけた「地蔵の湯」の立て札のところから細道に入って進むと、小さな林に突き当たった。林の中の窪地に湯が涌いていた。周囲の木々が塀の役割を果たして実にお誂え向きの岩風呂だった。けっこう広い。大人でも楽に十人は一度に入れるだろう。
 二人は顔を見合わせた。それから四方を注意深く見渡した。誰もいない。誰も来そうにない。
「入っちゃおうか」
「うん」
 二人は脱いだものを小枝に掛け威勢よく湯に飛び込んだ。最初はちょっと熱くて肌が痺れるような感じ。それにじき慣れると愉悦が二人の全身を巡った。
「いい湯だね」ノンが言った。
「月並みなお言葉。でもその通りよ」 ユカリが笑って応えた。
「だいぶ元気になったようね」
「うん。ありがとう、ノンのおかげよ。それからこの町のおかげ・・・」
「そうね。最初この町に行くって聞いたときはびっくりしたけど。だってこんな最果ての地なんですもの。世をはかなんで自殺でもされたら大変とあたしは思ったわけよ」
 ノンは耐水の腕時計をはずすと時刻が見えるように調整しながら岩の上においた。それで身につけているものは持ち込んだタオル以外に何もない。
「でも、この町に近づくにつれてユカリったら目に見えて元気になったのよ。東京ではいまにも死にそうな顔していたのに」
「この町にはね、不思議な力があるの」
「不思議な力? あたしには辺境を売り物にしているただの観光地にしか思えないけど」
「ううん、そうじゃないの。去年の夏休みに伝承の採集に来たとき、あたしはたしかに感じたの。現代人が歴史の片隅に押しやった不合理な力をね」
「不合理な力? へえ、そんなわけのわからないもので元気になるの。さすがに民俗学をやっている人はちがうわね」
「この地方には古い時代からの民間伝承がまだたくさん残っている・・・」
 言いながらユカリは胸がときめいた。こんな季節外れにやみくもにここにやって来たわけがわかった。立ち直れるかも知れないと思った。
「たしかに古いものがたくさんあるところね。町の真ん中に建っている大時代な時計塔にもびっくりしたけど、さっき乗ってきたバスもやけに年代物だったわね。あんな形のバスははじめてだわ」
 ノンが湯に浸したタオルを絞りながら言った。木漏れ日が湯の表面に溶解した黄金のように点在して浮いているのをユカリは手で掬う仕種をした。
「ボンネット型バスよ。エンジンが前にあるからあんな形をしているの」
 ノンはユカリの生気をすっかり取り戻した顔を見て安心した。もう大丈夫だ。東京に帰れば嫌でもまたあの男と会うことになるだろうが、なんとかやっていけるだろう。岩に背をあずけるとノンは両足を思いきり伸ばした。
「いい気持ち。ずっとここにいたいわね」
「でも次のバスに乗るんだったら、そろそろ出ないと」
 ユカリが岩の上のノンの腕時計を見ながら言った。
「どうしようか?」
 二人はまた目を合わせた。
「次の次のにしようよ。急ぐ旅でもないし」
「賛成・・・」と言いかけて、ユカリは突然押し黙った。
「どうしたの?」
「何かいるわ。木の陰に」
「えっ!」
 二人はわれしらずタオルで胸を隠しながら岩風呂の奥の方に後退した。
「誰かいるの!」ノンが大声を上げた。
 それに応えるかのようにバサバサッと木立の向こうで音がした。二人は恐怖でひしと身を寄せ合った。暴漢か。いや熊かも知れない。冬眠しそこなった人食い熊か! そういえばこの辺からS国立公園にかけては、世界でも有数のヒグマの生息地。さっきまでの幸福感がいっぺんに吹き飛んだ。一寸先は闇ってホントだな。人生ってこんなふうに、ふいに終わるものなんだなあ。ユカリは震えながら考えた。ノンを巻き添えにして悪かったなあ。そうだ、あたしが食べられている間にノンに逃げてもらおう。ユカリは最後の身だしなみのつもりか頭髪を手で整えると、立上って湯のなかを勢いよく進んだ。
「ユカリっ! だめえっ、戻って!」
 ノンが絶叫した。

 しかし、何も起こらなかった。湯から出て木立の向こうに消えたユカリがすぐにノンを呼んだ。その声にはもう切迫した感じはなかった。ノンがおそるおそる湯から上がり外に出ると、ユカリが不審そうに辺りを見まわしていた。
 誰もいない。誰も来た形跡がない。
「何でもなかったみたい」
 カラスかなんか野鳥の羽搏きだったのかもとユカリは思った。
「ねえ、やっぱりもう出発しよう」ノンが言った。ユカリの大胆な行動にはいつもながら驚かされる。心臓に悪いわ。すぐヤケクソになるんだから。ノンは乾いたタオルでさっさと全身を拭いた。湯で温まっているとはいえ、冬の寒気のなかでは急速に体熱が失われる。下着をつけ防寒具をすばやく着込んだ。
「わっ、たいへん」ユカリが裸で立ったまま叫んだ。
「どうしたの。早く着ないと風邪ひくわよ」
「ないの」
「えっ、何が?」
「パンツ・・・」

 ユカリは替えのパンティをつけるとあたふたと防寒具を着た。他の衣服に包んでおいたのだから、いくら薄物とはいえパンティだけ風に飛ばされるわけがない。
「気味が悪いわね」
 二人は走って「地蔵の湯」を離れた。一刻も早くここから立ち去りたかった。ユカリはケチをつけられた気分だった。せっかく元気にしてくれたのに、こんなことでこの町を嫌いになりたくないと思った。きっと、ちょっと好色なカラスのイタズラなんだわ、とありそうもないことで自分を納得させようとしていた。ところが現実は、それ以上にありそうもないことが起こっていたのだった。
 ノンはユカリの下着だけ盗まれたことに気を悪くしている自分に腹を立てていた。よくそういう話を聞いてまさかと笑っていた通俗的な感情が自分にもあったなんて。
 しかし実際は、どんな人間も自分が思っている以上に通俗的なものである。

 二人は息を切らして大きな曲がり角をまわった。ちょうどやって来た「年代物のバス」が乗り場でもない地点で急停車して扉をあけた。運転士が指で乗るように合図している。二人が乗り込むとバスは何度もエンジンをふかしながら発進した。他に乗客はいないのだった。
 二人は座席に倒れ込んでほっと一息ついた。
 車窓から前方にバス停「地蔵前」がどんどん近づいて来るのが見えたが、バスはスピードを緩めようとしない。バス待ちの人影がないのでパスするつもりらしい。ふと路傍に立っている石像の姿が見えた。襟巻きをした愛嬌のある地蔵菩薩像。頭部にも何か白っぽいものをかぶっている。
「あっ!」二人は同時に叫んだ。
「停めて〜っ!」ユカリが金切り声を上げた。
 バスが急ブレーキをかけた。固い雪道にスリップして危うく横転しそうになりながら停った。
 扉を開けさせると、ユカリはバスから飛び降り地蔵まで全力疾走した。こんなに力一杯走るのは小学校の運動会以来だなと頭のどこかで考えている自分が何だか可笑しかった。地蔵の頭から布切れ をひったくるように取ると、また全力疾走でかけ戻った。
 バスはユカリを回収して再発進。運転士が身体をのけぞらせて声もなく笑っている。
「悪質なイタズラね」
 ノンが笑を堪えて言った。さっきまでの恐怖心と怒りは嘘のように消えていた。ユカリも力のかぎり走ったせいかストレスが軽減していた。憤懣と羞恥は捨てようもなかったが、時間が経つにつれて笑いが込み上げてくるのをどうすることもできなかった。
 襟巻きをして頭からすっぽりパンティをかぶったお地蔵さん・・・
 二人はとうとう堪えきれずに爆笑した。

 地蔵は鼻の下を伸ばしながらバスを見送った。にやけた表情をしたので顔全体のバランスが崩れてしまった。これに懲りて、あの娘は二度とこの町には来ないだろう。地蔵は満足そうに頷いた。木の陰から様子を窺っていた私の気配に気づくとは只者ではない。われわれにとっては危険な人間だ。何という名前だったか。そうだ、ユカリとかいっていたな。覚えておこう。
 白地に薄いピンクのストライプが入ったパンティ・・・

 午後になった。バスは定刻通りに往復を繰り返していたが、地蔵の前で乗り降りする客は皆無だった。人通りも殆どなかった。黄緑色の営林署のジープが一台、国有林へ向かって行ったのと、近所の隠居じいさんが愛用のスノーモービルを危なっかしく運転して街の方角へ走り去っただけだった。
 光と風のなかを時間が静かに過ぎていくのが見える。地蔵の内にはすでに百年以上の時間の経過が蓄積されていた。千年かけてゆっくりと風化していくつもりだったが・・・
 地蔵は目を閉じて少し眠った。久しぶりの睡眠だった。
 目覚めると夕方だった。以前に深く眠り込んで起きたときには十年が過ぎていたことがある。目をしばたかせて周囲を窺った。現在は眠る前の一日の続きだろうか? 
 バスが停ってトモコを降ろした。カバンに付けた鈴が可憐に鳴った。地蔵は胸を撫ぜおろした。
 トモコはバスに小さく手を振ってから地蔵の方を向いた。元気がない。いつもならいきなり地蔵の頭をぴしゃりとやって「ただいま」と叫ぶところだ。忘れていった襟巻きを見ても何も言わない。無言で地蔵の首からはずした。
 そのかわりに今朝見たリボン付きの包みを地蔵の頭に叩きつけるように置いた。グシャ、という感じでなかのチョコレートが砕けた。
「あげるわ」
 それだけ言うと、トモコは背を向けてとぼとぼ歩きだした。その背を夕日が赤く染める。辺り一面赤い光のなかに沈んでいく。
 プレゼントを渡せなかった。つまり告白できなかったのだな、と地蔵は思った。どれどれ、ひとつ味見を。地蔵は石の手で器用に包みを開き、チョコレートのかけらを口に放り込んだ。
 うっ・・・
 地蔵はすぐに吐き出した。ぺっぺっと何度も唾を吐いた。溶けたチョコレートが唇の端から顎にかけて一筋流れた。手渡せなかったのは、トモコのためにもアホのコータのためにも幸いだった、と地蔵は心から思った。

       
  (おわり)


●昔かいた「変な味がする話」の第一話です。
こんなもんを打ち込むのに一日かかってしまいました(笑)
今日ムスメが作っていたチョコレートは巨大なオニギリみたいでした(爆)
誰にあげるのやら。うーむ。









 


散文(批評随筆小説等) 地蔵前 Copyright みつべえ 2004-02-14 07:06:32
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