セーヌ川の畔で
服部 剛
開店時刻の前
Cafeのマスターは
カウンターでワイングラスを拭きながら
時々壁に掛けられた一枚の水彩画を見ては
遠い昔の旅の風景を歩く
*
セーヌ川は静かに流れている
両岸に架かる橋の向こう
ノートルダム大聖堂の背後に建つ尖った塔の頂は
低く垂れ込める曇り空を指している
パリを行き交う人々に紛れて
異国の若い旅人は一人料理人の職を探して
行方知らずの明日へと彷徨う
川沿いに並ぶ屋台に置かれた一枚の絵が目に留まり
彼は無名の画家から買った絵を入れた袋を手に
再び歩き始める
音楽家・・・絵描き・・・詩人・・・
それぞれの想いを抱えてパリに集う誰もが
川沿いの霞がかる道の向こうに
手探りの夢を探している
うつむいて歩く彼の方を
川の畔で地べたに座り
酔っ払っているホームレス達が見ていた
不思議と幸せそうに並ぶ微笑に吸い寄せられて通りかかると
「 旅人よ、今日という日を楽しもうじゃないか 」と
回し飲みの酒瓶を差し出され
酔っ払った彼は地べたに座り
皆と肩を並べて唄った
*
十年以上の時が流れ
マスターは鎌倉のCafeで今日も
あの頃の旅の記憶を弄るようにワイングラスを拭きながら
壁に掛けられた一枚の水彩画をみつめる
*
若き日の旅人は腰を上げ
地べたに座るホームレス達に手を振り歩き始め
パリを行き交う人々に紛れた彼の背中が消えてゆく
川沿いの霞がかる道の向こうへ