感想の感想
アマル・シャタカ

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>「自分にとって詩とは何か」「何故詩を書くのか」
>そんなことは、個人的にはどうでもいい。
>詩を書くことと呼吸することは自分の中では同義だ。
>「何故呼吸するのですか」と聞かれているに等しい。答えようがない。
>それよりも、
>「詩にとって自分とは何か」「自分に詩を書く資格はあるのか」
>そちらのほうが、自分にとっては大切な命題だ。

 この部分の「詩にとって自分とは何か」と「自分に詩を書く資格はあるのか」という言葉を、僕は最近、こよなく愛している。原口昇平氏は、この文章の「詩」の部分を「呼吸」に置き換えて論じられているが、それははなはだ、読み手に誤解を与えるやり方ではないかと思う。筆者の真意を読み取れなくなる。
「呼吸」と「詩」が「等価」である、と論じられているのは、じつは「答えようがない。」までのところであって、それ以降の「それよりも」からは、文意が違うのであるから、そこまで「呼吸」を適用してしまっては、おかしなことになってしまう。

 本当に言いたいことと、僕が思っているのは、「詩にとって自分とは何か」「自分に詩を書く資格はあるのか」と問いながら、全文の後半に出てくる「自分の魂をいかに「詩」という表現形式として昇華できているか そこに尽きる。」ということなのであって、その観点からこの『在り方を成立させる技術について』というものを読まなければならないと、僕は思っている。だから「呼吸にとって自分とはなにか」とか「自分に呼吸する資格はあるのか」では、文意としては適当ではない。「呼吸」というのは、自分でほとんど意識しないでやっていることである。だからといって、生きていくためには、なくてはならない必要なものである。そこには「呼吸」に対する好悪もない。ただ「書く」という行為が、これに当たると思う。しかし、「詩にとって自分とは何か」「自分に詩を書く資格があるか」というのは、自分の「詩」に対する姿勢であり、礼儀であり、求道であると思う。例えは悪いが「愛するこの女にとって、自分という男は何か?」「自分にこの女性を愛する資格があるか?」というのと似ていると僕は思っている。
 自分の愛するものに対する崇高な思いがあるからこその、求道であり礼儀であり問いかけなのである。したがって、原口氏の

>つまり氏においては、内側からではなく外側から、絶えず自らの呼吸が肯定されていなければならない>のだ。それは「あなたは呼吸していてもいい」「あなたは生きていてもいい」というような赦しに似ている。

という文章も、僕からみれば少し方向が違うと思うのだ。「求道」というものには、答えがあってないような世界である。だからこそ問い続ける。外側から赦しを与えられても、本人がそれに満足しなければ意味が無い。赦し、というのは最終的には、自分自身で自分を赦すということがなければ、当人は救われようがない。人は孤独に弱いから、他人を求めることはある。「こんなどうしようもない自分」を「赦してくれる他人」が欲しいというのは、確かにあるが、その前に必要なことが「どうしようもない自分を自覚すること」、すなわち、自分自身への「赦し」である。

>「生きていることはそんなに羞づかしいことなのか!」と書き込みがされていて(たぶん前の持ち主が>書いたのだ)、思わず笑ってしまったことがあった。

と原口氏は書いておられる。僕は「生きていることはそんなに羞づかしいことなのか!」を読んだら「然り!」と答えてしまうほうである。笑ったりはできない。僕も今年35歳になる。太宰にはまったりはしないが、自分の人生経験から、そう思うのである。僕は自堕落な人間である。しかし、そんな僕でも「自堕落を自覚しない自堕落な人間」が嫌いである。だが、「どうしようもない自分を自覚している自堕落」な人間には愛着を感じてしまう。ある一個の「理想」とする世界があり、それに対する自分の在り方を求めるのが求道である。その理想が高ければ高いほど、自分の至らなさを痛感しつつ、人は道を昇っていくのである。
『在り方を成立させる技術について』を書かれた方には、僕は残念ながらお会いしたことはない。しかし、この人の書く文章からは、僕はいつも「求道」という姿勢を感じている。それは「詩」に対する真摯な愛情である。だからこそ厳しいことも書かれることはあるが、よらず求道というものは、そういうものである。誰も代わりはしてくれない。厳しくとも困難でも、自分の足で歩くしかない。その厳しさも知っているからこそ叱咤されるのであろう。

 画家のゴッホは生前、一枚しか絵は売れず、最後は発狂の中で死んでいった。モディリアーニも、妻と子がいながら貧困の中で死んでいった。これが現代日本なら、絵なんか辞めて、他に働きにいったであろう。そしてそれが「社会人」としては正しい姿である。しかし、「絵を描く」ということは、ゴッホとモディリアーニにとっては「呼吸すること」と同じであって、辞めてしまえば自分は死んだと同じことなのだ、ということだ。だから、死ぬまで辞められなかったのである。ただ、それだけのことだ。しかし、彼らが求めた「絵の世界」は、「呼吸」とは違う世界のものである。

 「感想」と書かれているから、どのように読み取ろうとかまわないと思う。このことで氏と議論しようなどと思ったこともない。ただ、僕が読み取ったことと違うスタンスであったので、僕も「感想の感想」と言う形を取らせていただいた。


散文(批評随筆小説等) 感想の感想 Copyright アマル・シャタカ 2006-03-28 16:25:42
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