九鬼周造著『日本詩の押韻』再読
狸亭

はじめに

 詩人であり『中庭』の熱心な読者でもあるS氏から寄せられた文章を読みました。日本語による押韻定型詩の可能性にたいする根本的な疑問が述べられており、まことに古くて新しいこの命題は常に論じつづけられるべきなのでしょうが、一方では『中庭』創刊以来くりかえし論じられて来てすでに何度も誌上に掲載された論考を読みおとされているようにも感じられます。そこでこの際もう一度S氏や『中庭』の新しい読者と一緒に九鬼周造の名著を読みたいと思います。

 九鬼周造(1888〜1941)は名著『「いき」の構造』で知られております。(哲学者。東京生まれ。東大卒。京大教授実存哲学の立場から、文芸の哲学的解明に業績を残す。著「『いき』の構造」「偶然性の問題」など。)と広辞苑の記述は簡単です。1888年(明治21年)生まれの詩人は千家元麿、川路柳虹、ですが、他には辰野隆、小泉信三、神近市子、賀川豊彦、里見淳、長与善郎、国枝史郎、菊地寛などが同年です。

 『日本詩の押韻』は岩波版の『九鬼周造全集』第四巻及び第五巻に収録されていて全集巻末の「解題」によりますと、発表の経過は次の通りです。
全集 第五巻『押韻論』
(1)邦詩の押韻について
   昭和5年(1930年)3月『冬柏』に小森鹿三のペンネームで   「押韻について」という表題で発表された。
(2)日本詩の押韻[A]
   昭和6年(1931年)10月16、17の2回にわたって『大   阪朝日新聞』に発表された。
(3)日本詩の押韻[B]
   昭和6年10月に岩波講座『日本文学』に発表されたものの大幅   な改定稿。

 つまり全集第四巻に収録されている『日本詩の押韻』が最終稿であり、より深く九鬼の思考、論旨を理解するためには、上記の順序でテクストを読むと良いでしょう。
 53歳で没したこの稀有な文人哲学者の押韻の問題に関する周到な考察は、著者のパリ滞在中(1927年)すなわち著者30代後半から書き始められ、帰国後の40代後半に至る、ほぼ10年間余をかけて達成されております。

 九鬼周造が押韻の普遍性、日本性と世界性を探るために読みあさった古今東西の詩書の量は驚嘆に値します。恐らく現代においてこのような分野での仕事は、時間と才能と執念と感性と教養においてもなかなか太刀打ちできないでしょう。『古事記』、『万葉集』特に人麿の引用が目立ちます、から始まって、『齋明記』『歌經標式』『奥義抄』『梁塵秘抄』『太平記』『應神記』、以下、催馬楽、仁徳紀、俗謡、祝詞、施頭歌、神楽歌、浄瑠璃、古今、新古今、増鏡、更に、和歌、短歌、俳句、連歌、の類、中でも芭蕉が多い。明治、大正を通じ、『新體詩抄』の矢田部尚今、井上康文。島崎藤村、岩野泡鳴、森鴎外、三木露風、中西梅花、正岡子規、千家元麿、北原白秋、白鳥省吾、福田正夫、福田夕咲、佐藤惣之助、川路柳虹、山村慕鳥、日夏耿之介、土井晩翠、薄田泣菫、中西悟堂、蒲原有明、島田芳文、柳沢健、福士幸次郎、与謝野晶子、萩原朔太郎、中野重治、西條八十、柴山晴美、高村光太郎、蔵原伸二郎、三好達治、百田宗治、三富朽葉、神原泰、田中冬二、生田春月、河合酔茗、宮沢賢治、加藤介春、高木斐佐雄、金子光晴、佐藤春夫、今岡弘、堀口大學、多田不二、伊東静雄、中原中也、草野心平、北川冬彦、神保光太郎ら、およそ昭和10年に至る、九鬼の生きた時代のおける最先端の同時代の現代詩までを読み貫しています。   
 これら日本の詩人たちの仕事に対しての飽くことのない関心は『日本詩の押韻[B]』から決定稿『日本詩の押韻』まで継続されていて、なみなみならぬ気迫がみなぎっています。
 九鬼自身の作例についても、前者の26篇が後者では39篇に増えておりますし、単に作品の数のみならず、前者に収録されたと同じ題名で後者に再録された作例でも、その全てにわたって推敲の跡が明らかです。 一方、世界の詩につきましても、フランス、イギリス、ドイツ。イタリー等ヨーロッパ及びギリシャ、ラテンの古典から中国の古詩に至り、ほぼ引用順にまぜこぜに挙げますと、ヴァレリー、ヴェルハアレン、李白、バイロン、シェリー、ホラチウス、ボードレール、エレディヤ、ゲーテ、リルケ、ボワロー、ユゴー、ヴェルレーヌ、ラ・フォンテーヌ、『詩經』、コウレー、リュッケルト、ダンテ、シェークスピア、杜甫、廷芝、マラルメ、張九齢、ゴーチェ、蘇軾、ステファン・ゲオルゲ、漢昭帝、韓愈、グウルモン、タッソオ、コクトオ、『飯牛歌』、陸遊、ペトラルカ、更に『和讃』『梵讃』からギリシャのエリトゥエの予言女の作「句端詩』まで。これらの詩人たちは今日から見れば隨分古いように感じるかも知れませんが、九鬼周造がこの論考に取りかかった時代(1927年)にありましては、ヴァレリーはまだ生存中(56歳)であり、九鬼は39歳、しかも九鬼が1941年に53歳で没した時はヴァレリーはまだ70歳(1945年、74歳で没)で健在だったのです。

 さて、決定稿『日本詩の押韻』は次の10章から構成されております。一 押韻の芸術的価値
二 不定詩と押韻
三 日本詩の押韻可能性、積極的理由
四 日本詩の押韻可能性、消極的理由  
五 (イ)文字
  (ロ)音響学的性格([B]では、単語の聴覚上の性格)
六 (ハ)文の構造
七 韻の量
八 韻の質
九 韻の形態
十 押韻の日本性と世界性([B]では、押韻の普遍性)
付録 作例 39篇([B]では、26篇、付録としてではなく、十一章目に位置付けられてます。)

 もう昔の話になりますが、筆者二十代の頃、日仏会館の小ホールで聴いた西脇順三郎の講演が忘れられません。西脇は「詩」という概念をフランス語の「ポエジー」と「ポエム」に分けて話しておりました。「ポエジー」は内容であり、「ポエム」は器である、と。つまり内容と形式のことを分かり易く解いてくれました。日本語で「詩」と言う時、どうやら「ポエジー」と「ポエム」が混同されて使われているのではないか。人は風景に詩を感じると言い、君はなかなか詩人だなあ、などとも言いますが、こういう場合の「詩」は「ポエジー」のことを意味していると言えましょう。
 詩を料理に例えれば、旨い料理を美しい器に盛れば、そして雰囲気の良いレストランが装本や装幀や印刷とすれば、より味わい深いものとなり、忘れがたいものになります。新鮮な食材を美味な料理に作り上げるためには、コックさんは基礎から始めて長い習練が必要です。もちろんこんな例えは別の観点からはのっけから反論は簡単でしょう。時には舌を刺す辛い料理だってあるさ。あるいは、食うや食わずの飢えた人々にとっては無用のことではないか、等々。どうやら話が脇道に逸れてしまいそうなので、この議論は別の機会に譲ることにして、テクストを読むことにしましょう。

 一 押韻の芸術的価値
 九鬼の『日本詩の押韻』論は内容論ではなく形式論であることを前もって断っておきます。「ポエジー」を盛るに相応しい「ポエム」という器の有り様についての考察であります。この辺が誤解を招き易いところなのですが「ポエジー」だけでは「詩」ではないということ。ポエジーに相応しい器(ポエム)に盛られて、あるいは内容と形式が表裏一体のものとなって初めて詩を人前に出せるということなのです。

  詩は他の芸術と同様に内容と形式とに分けて考へる事が出来る。詩 の内容は感覚、感情、思想等の複合体である。詩の形式は言語相互間 の関係に存するものであるが、二様の異なった見地から見る事が出来 る。一は言語の有する音の連続に基づく量的関係で、他は音の特殊な る質的関係である。量的関係は相接続する音綴の数、又は長短又は強 弱に基礎を有するもので、詩の律を形成してゐる。質的関係は即ち詩 の韻を形成するものである。斯様な形式を詩に採用することに就いて は、徒らに創造の自由を束縛するのみで何等価値なきものと考へ得る かも知れない。然しながら芸術の本質は内容と形式との調和統一に存 するもので、芸術の内容は芸術をしてふさわしい形式を備へなければ ならない。形式上の束縛は芸術には或意味で本質的なものである。  (「邦詩の押韻に就いて」全集第五巻255頁)

 この文章を敢えて冒頭に引用したのは、九鬼の思いがこめられているからです。「日本詩の押韻」について考え始めた原点だからです。
 九鬼はまず、韻と律について次の様な図解を示します。(全集第四巻225頁)

    律(Rhythmus,rhythm,rhythme)
韻律 
           頭韻(Stabreim,alliteration)
    韻(Reim)  
          
           脚韻(Endreim,rhyme,rime)

 筆者が韻律の問題に捉えられたのは、『中庭』創刊号における梅本健三の論文でした。それは「よくみる夢『海潮音』が口語押韻訳だったら」と題するヴェルレーヌの詩を巡って詩の構造を詳細に解明した好論文ですが、同稿のー前置きーの記述「現代日本語の押韻定型ということに、何か疑問を感ずるとか、反感を覚えるとかという人たちへ」に従って、素直に、読みたい本文を飛ばし「後置きの序説ー定型忌避の生まれる場所」を先に読み、強く感ずるところがあり、同氏の『詩法の復権』を読み、更に九鬼周造の『日本詩の押韻』へと導かれたという訳です。出来ますことなら里村氏も同じような順序を追って戴ければと思います。
 詩の内容と形式については自分なりに考えてはおりましたが、自由詩が当り前という現代詩の世界で、種々詩論を読み、仲間とも議論し、講演なども聴いてみましたが、多くの詩人たちが、様々なスタイルの詩型を持ち、それなりに自己の内部に回路を作り上げていて、森羅万象をその回路を通過させることで詩にしてしまう自由闊達な作風を、羨ましく思う一方で、どうせ自分は凡才だし、凡才は凡才なりに自分の詩を書いて行けばいい、いずれ自分らしい回路が出来てくるであろう、と或る意味では多寡を括っていたところもありました。しかし自分流の詩というものは、多くの陷穽に取り巻かれていてどうもこれでは駄目だという思いに付きまわれておりました。興が乗ればいくらでも書けてしまうのです。自由詩だから、どう書いてもいいし、制約が無いからでしょう。
 押韻詩を実際に試みてみますと、いつもは使ったこともない言葉と出会います。自分流の感性のみに頼った表現、使い慣れた(時には手垢にまみれた日常的な言葉)と音韻上の制約によって捜し出された言葉との衝突によって、思わぬ効果がもたらされます。まさしく「形式上の束縛」が緊張を高め、そのことにより、喜びがある、という訳です。

  詩の形式に関して次のやうに考へる者もあるであろう。いはゆる律 や韻は外的形式に過ぎない。真の詩は内的形式に従はなければならな い。真の律とは感情の律動であり、真の韻とはこころの音色である。 かういふに考へるのは広義における自由詩の立場である。私はこの立 場に対して決して抗議をするものではない。寧ろ自由詩と律格詩とは 相竝んで発達して行くべきものと信じてゐる。ただここに両者の相違 を明らかにして置きたい。自由詩を主張する者は感情の律動に従ふこ とを云ふ。然しながら、この場合の従ふといふ意味は詩の律格に従ふ 場合とは意味を異にしてゐる。感情の律動とは主観的事実である。詩 の律動は権威をもって迫る客観的規範である。両者の間には衝動に  「従ふ」恣意と、理性に「従ふ」自由との相違に似たものがある。自 由詩の自由は恣意に近いものである。律格詩にあっては詩人が韻律を 規定してみづからその制約に従ふところに自律の自由がある。現実に 即して感情の主観に生きようとする自由詩と、現実の合理的超克に自 由の詩境求めようとする律格詩とは、詩の二つの行き方として永久に 対蹠するものであらう。(「押韻の芸術的価値」全集第四巻226頁) 
 九鬼はこのあと、「新體詩」における最初の論争として、1890年の山田美妙齊と内田不知庵の論争やこれに対する鴎外の言及、芭蕉、泡鳴、万葉の作例を引き、ヴァレリーの言葉や『歌經標式』や古今の作例をもとに精緻な芸術論を展開します。朔太郎、白秋の詩論も適切ですが、完璧なヴァレリーの作例及び「韻律の形式が詩に缺くべからざることを力説し」た言葉は特に美しいものです。曰く、「感激は作家の心の状態では無い。火力は如何に偉大であるとも、機械によって技術上の拘束を受けて、初めて有用となり、原動力となるのである。適切な束縛が火力の全く消散せぬやうに障害物とならねばならぬ」。そして九鬼のストイックな芸術論は次のように結ばれます。

  およそ形式に束縛を感ずるのは詩人にとって決して誉では無い。みづから客観的法則を立て、みづから客観的法則に従ふとき詩人は自然 のやうな自由を感ずる筈である。なぜならば、表現界の客観的法則に 従ふ主観の受動は、表現界を創造する主観の能動にほかならない。受 動はパトスであることによって受動から能動へ反転する。表現は自己 犠牲を媒介として自己肯定を実現するのである。法則を拘束として意 識しないところに、芸術家としての、また人としての偉大さとパトス の創造力とがある。(「押韻の芸術的価値」全集第四巻239頁)

 二 不定詩と押韻
 次の主題である「不定音詩」とは「狭義の自由詩」のことです。敢えて「狭義の」というのは定音即ち音綴の長短不定であり、各詩行の長さをいうからです。「口語体、文語体の選択はその都度、詩人の感情なり題材なりによっておのづから規定されるので、いづれか一方に片付けてしまはねばならぬといふやうな性質のものでない」のですから「文体の如何んは韻の問題に関して何等考慮する必要はない。」訳です。この章で注目すべきは、ギリシャ、ラテンの詩では音綴の長短が厳格であったがフランスでは特にロマン派が古典派の規定を破った際、即ち律をいわば自由化した時、かえって韻を重視した経過でありまして、中国の李白の作例もありますが、九鬼は「日本の詩壇では、自由詩の押韻といふことについて、大きい開拓の余地が残されてゐると思ふ。」と言っています。何故か、次の引用を読んで欲しいのです。

  嘗て北原白秋は白鳥省吾の「森林帯」と福田正夫の「戀の彷徨者」 とを取って、その詩行を廃し、散文の書式に書き換へ、それらの詩が 詩ではなくて散文であることを主張し、詩壇に論争の渦巻きを起こし た。もしこれらの自由詩が押韻を採用してゐたならば、この書き換へ 事件は起こらないで済んだのではあるまいか。北原氏は詩の内律とし てのリズムを力説する人であるから、たとへ散文の句末に押韻したと てそれだけでは詩にならないといふかも知れない。それも道理である。 私とても押韻だけで詩が成立するなどとは決して考へてゐない。詩か し前節にも述べたやうに押韻はそれ自身に一種の節奏を生み、少なく も行別を鮮明にして一篇の詩全体にリズムを齎す力をもってゐる。與 謝野晶子も「詩を作り終りて常に感ずることは、我国の詩に押韻の体 なきために、句の独立性の確実に対する不安なり。散文の横書きにあ らずやと云ふ非難は、放縱なる自由詩の何れにも伴ふが如し。この欠 点を救ひて押韻の新體を試みるの風起らんこと、我が年久しき願ひな り」(『晶子詩篇全集』「小鳥の巣」の序)と云ってゐる。(「不定 詩と押韻」全集第四巻244〜245頁)

 その頃、時を同じくして北川冬彦の「新散文詩運動」が起こったことが思い出されます。北川の論は「ポエム」の形式があまりに放縱なので、逆に真の「ポエジー」を判別するために「新散文詩」を提唱したものでありました。九鬼はこの章で、ヴェルハアレン、李白、西條八十、金子光晴、佐藤惣之助、柴山晴美の詩行を肯定的に引用しております。

 三 日本詩の押韻可能性、積極的理由
 この章では川路柳虹、福士幸次郎、生田春月、三好達治らの「元来、日本語は押韻に適しない言葉ではあるまいか」という疑問、あるいは断定に対する反論が述べられます。里村氏を含めおそらく、今日までの天下の趨勢はこれら著名人の言葉を既成事実として、みづからの手で試みることなく、押韻の可能性を封じてしまったようです。九鬼は次のように宣言します。

  私は押韻の採用は日本語にとって不可能だと断言することに反対す る。私が押韻発達の可能性を信ずる積極的理由は、音韻上の関係が古 来日本の詩歌にあって極めて重要視されてゐる事実に基づいてゐる。 (「日本詩の押韻可能性、積極的理由」全集第四巻251頁)

 以下、『古事記』、『萬葉』から人麿、赤人、高橋蟲麿、大伴三中、家持、讀人不知まで。『齋明記』、『古今』の貫之、在原行平、躬恒。『新古今』から良經、『太平記』、『俗謡』、『應神紀』、『催馬楽』、『仁徳紀』時代が下って、俳人たち、芭蕉、策彦、宗養玄也、江心(等等等他は省略)これら歴史的遺産であります作品例を網羅し、かつラテン詩における押韻発達の経過も踏まえ、押韻の跡を辿り実証的研究の成果を見せてくれます。そしてこれらの事実を提示したのちに、「我々の関心の重点は過去にあるのではなく、未来にあるのである。歴史そのものが問題ではなく、詩作が問題である。」と言っているのです。ここに加えておきたいのですが、奈良朝での藤原濱成の『歌經標式』と平安朝の藤原清輔『奥義抄』の位置付けです。それは「わが国古来の詩歌の中で、句尾の押韻が明らかに意識的に試みられた事実」として、九鬼の押韻論を支える柱の一つがあることです。

 四 日本詩の押韻可能性、消極的理由          
   (イ)文字
 五 (ロ)音声学的性格
 六 (ハ)文の構造
 この第四章から六章までは、九鬼が「押韻発達の可能性を信ずる消極的理由」としてこれは「反対の理由として想像されるものが成立しないと思惟する」からですが、それでも念のためきちんとしておこう、との意味で詳しく(イ)文字、(ロ)音声学的性格(単語の聴覚的性格)、(ハ)文の構造について、考察しています。

 まず「文字」ですが、フランス語でも英語でも「内容たる声音と視覚的象徴たる文字とは必ずしも常に完全な一致を示してはゐない」事実を挙げています。そして「韻とは聴覚上の事実」であって「耳に聴くべきもので、眼に見るべきものではない。視覚の範囲に属する文字とは、本質的に関係のない筈」としラジオによる詩歌の朗読の例を挙げ「ラヂオが印刷機械の後に発明されたことは、聴覚文明が既製の視覚文明の一角を破って、我々の生活に歌謡発生時代の原本性を再び取戻してくれたことを意味してゐる。」と論じています。この辺りは九鬼の時代と、TVなどの視聴覚文明、デジタルなヴァーチャルリアリテーに席巻されつつある今日ではニュアンスの違いがありましょうが、昨今の詩の朗読などを聴いていますと音声になった言葉と文字としての言葉を各自がどれほど意識的に使い分けているか疑問です。聴覚上の韻と文字上の韻との合体の見事な例として九鬼は芭蕉の次の句を挙げています。

 奈良七重七堂伽藍八重櫻

 さて、「音声」の問題です。文章では長くなりますから九鬼の調査による英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語、イタリー語と日本語の母音に対する子音の割合を図式的に見ることにします。

        母音   子音
英語      2    3以上
ドイツ語    2    3以上
フランス語   3    4
ラテン語    4    5
イタリー語   5    5
日本語     5    5

 作例としてボードレールのラテン語詩と日本語の韻の比較を行っていますが、紙数の関係からその一端を覗いて見ましょう。(いずれも脚韻の部分のみ、意味の整合性はありません)
 ラテン語  日本語     
implicata   踊り方(おどりかた)
delicata   左肩 (ひだりかた)
peccata   綱館 (つなやかた)

 又エレディヤの詩に実際に日本語の脚韻の部分で使われている例として、「biva(琵琶)とrevaとvaとTokugawa(徳川)の四つが韻をなしてゐる」。今日では国際化も進み、各国語がミックスされて詩作品の中に入ってきており、音韻の交流はより豊かなものになっているように考えられます。まさに「一国語の音声学的性格などといふものは動きがとれないほど固定的なものではない」のです。
 日本語における押韻の反対論者として、近重真澄、フローレンツ、三好達治の反対論を引用した後、これを論破します。

  いったい、音韻上の効果を考察するには詩の韻はそれだけを単独に 分離して見ることは出来ない。一章の言語の統体と関係させて考へな ければならない。全章に亘って母音に比して子音がよほど多い場合に は、句末の韻にあっても特に子音の協力を強調することが必要である。 全章に含まれる子音があまり多くない場合には、必ずしもその必要が ない。都会の雑音の中では密語にもおのづから声を高めるが、静かな 山路では木の葉の落ちる音さへも響く。(「音声学的性格」全集第四 巻296頁)

 消極的理由の最後の疑問は「文の構造」です。日本語文の構造上押韻に不利であるとして挙げられる三つの事実。
 (一)用言が補格に立つ体言の後に来る。
 (二)用言の中でも助動詞がよく文の最後に来る。
 (三)助詞が詩句の終りに来易い。
 これらの例として、人麿、藤村、柳虹、省吾、冬彦の作例を挙げ、更に米山保三郎、三好達治の日本語文の構造上の押韻に対する欠陥の指摘をも引いた上で「体言を自由に詩句の終りに置き得る西洋語にあっても必ずしも常に体言が詩韻の大部分を占めないで、用言相互間の押韻が多い事実」を挙げて更に日本の詩の例をも列挙していきます。ゲーテ、リルケ、貫之、光太郎、蔵原伸二郎、白秋、三好達治、百田宗治そして子規の『新體詩押韻の事』等等を引き、上記の(一)(二)(三)への反証をして見せてくれます。そして次の様に締めくくるのです。

  日本詩の押韻可能性に対する反対理由である第一の文字も、第二の 音声学的性格も。第三の文の構造も、いづれも難点は単に程度の問題 に過ぎない。しかもその程度は、押韻の実際に当つては、抽象的に考 へてゐた程のものではない。それに反して脚韻を踏むか踏まぬかとい ふことは、芸術上の一形式を成立させるかさせないかといふことで、 そこには単なる程度上ではない性質上の差異が生じてくるのである。 詩が新しい形式を一つ獲得することは、武器が一つ加はつたことを意 味する。(中略)私が真に理解に苦しむのは、日本の詩人たちのうち に押韻反対論を述べる人の少なくないことである。(中略)伝統をた だ古い姿で墨守してゐさえすればそれでいいのではない。伝統に従ひ ながら伝統を豊富にして行くことが詩人の任務であらう。私が現代の 日本詩人に求めることは、第一に美への絶対的帰依である。第二に美 への奉仕に於いて如何なる難関をも突破する勇気である。(「日本詩 の押韻可能性、消極的理由」全集第四巻319〜320頁)

 末尾の「美への絶対的帰依」とか「美への奉仕」とかの表現は今日から見るとやや穏当でないようですが、「美」を「詩」と読み換えてみれば、納得できる筈です。何故なら詩人にとって「詩」は全てであるのですから。

 七 韻の量
 今までの論考は日本語の詩に押韻が可能であることの実証的検討であり、証明でした。押韻が可能であるばかりでなく過去において優れた遺産が沢山存在しており、そういう土壌の上に立っていよいよ詩韻の構造について述べています。それは、本章の「韻の量」と八章での「韻の質」九章の「韻の形態」です。韻の量を整理すると次の様になります。

(甲)単純韻ー成員たる母音(または母音以下の応和の場合)
(乙)拡充単純韻ー母音に先行する子音に亙っての応和の場合
(丙)二重韻ー最後から二番目の音綴の成員たる母音以下の応和を示すもの
(丁)拡充二重韻ーその母音に先行する子音に亙る応和を示すもの

 著者は韻の量についても『歌經標式』の例により日本の詩を、更にイギリス、フランス、ドイツ、イタリー、中国、日本の現代詩までを豊富に検討し、各国語の特性を詳細に調べた上で、日本語の詩韻は二重韻が最も適当である、と結論します。例文をいちいち引き写すことは紙面の関係でとても無理なのが残念ですが、例えばほんの一例として次に挙げておきます。

 松の花      (ana)
 苫家見に来る序かな(ana)  (芭蕉)

 をりからぱたぱたと  (ato)
 草屋根におりて来た野鳩(ato)(田中冬二)

 なお「明治の初期、新體詩の成立と同時に矢田部尚今が『春夏秋冬』の序に『句尾の二字を以て韻を踏む』と云つて、二重韻の価値をはっきりと自覚したことは特筆すべき事実である。(中略)其後は岩野泡鳴が二重韻の必要を力説し、森鴎外も二重韻の詩を作った。」と述べております。以下本章の結び。
 
  要するに日本の詩韻の量としては、単純韻は要求を充すことが出来ず、是非とも二重韻が典型的のものとして立てられなければならない。 また拡充単純韻は既に或度まで韻の効果を表はすから、補助的に用ひてよいものであり、拡充二重韻は豊富な韻として尊重して差支ないものである。(「韻の量」全集第四巻355頁)

 八 韻の質
 韻の質についてはまず「韻を質の上から見るとき、いままで量について述べたものは韻として概して完全なものであったが、それに対して不完全韻と稱すべきものがある。」として、不完全韻を次のように分類します。

(甲)音の応和の不足のもの、
  (一)母音の音量を異にするもの。
  (二)母音の性質を異にするもの。
  (三)子音の性質を異にするもの。
  (四)母音または子音の応和の位置の転倒してゐるもの。
  (五)応和してゐる音の結尾に更に他の音をつけたもの。
(乙)音の応和の範囲の大き過ぎるもの、
  (六)同音異議の語。
  (七)同語の反復。

 どういうことかを具体的に見るために、各一例ずつ抜き出してみます。(1)ほろほろと   (oto)
   山吹ちるか滝の音(ooto)
(2)灰吹こけし煙草盆(bon)
   駒散乱す将棋盤 (ban)
(3)町では人々煙管の掃除(ozi)
   甍は伸びをし    (osi)
(4)土手の相傘     (gasa)
   かたみがはりの衣紋坂(zaka)
(5)喪神の森の梢から    (kara)
   ひらめいてとびたつからす(karasu)
(6)波の引いたあと
   砂に残った波のあと
(7)海行かば水漬く屍
   山行かば草むす屍

 さて皆さん上の作例の作者は誰でしょう。正解は(1)芭蕉(2)子規(3)中原中也(4)俗謡(5)宮沢賢治(6)河合酔茗(7)家持です。これだけの例ではとても説明不足でしょうが、「要するに、すべての不完全韻は必ずしも美的価値の欠乏を意味するわけではない。単に正式の韻から何等かの意味での疎隔を示してゐるまでのことである。」とというわけです。

 九 韻の形態
 およそ押韻の原型は二句の応和である。
『古事記』の伊邪那岐、伊邪那美の二神の親しみ詞

  あなにやしえおとこを
  あなにやしえおとめを


 入れて去る遠き外つ國
 紫の匂ひ失せなむ
 しかはあれ胸に生くらむ
 八潮路の海のをちかた
 君が御姿 

  反歌

 ブロオニュの森に咲く花
 わかるる日つみて君が名
 胸に呼ぶかな
 
 他に「獨居」「花摘み」「三つ巴」「偶然性」があります。

(二)の例(「作例」全集第四巻473ー474頁)

  モンテ・カルロ

 モンテ・カルロへ
 紋日におじゃれ
 粋な湊江
 水路を来やれ

 カジノはこちら
 骰子ころり
 カフェはあちら
 財布はからり

 海は青々
 潮は眞くろ 
 藤の釣竿
 取らんせ鮪

 ここは色里
 揚屋も御座れ  
 今宵だけなと
 味みてたもれ

 他に「寄草發思」「淤能碁呂と麻具波比」「木花開耶姫」「行合橋」「ニイスの謝肉祭」「Credo quia absurdum」があります。

(三)の例(「作例」全集第四巻487ー488頁)

  諦め

 灰色がかったたましひ
 人生のなかばを辿り
 覺えた諦めと悟り
 世慣れたとでもいふらしい

 幾たびか躓きもした
 その都度よろめいて倒れ
 額に傷ついたおのれ
 運命とかの顔も見た

 下駄の音はうつろな音
 コトコトと空鳴りしてる
 口には剥げこけた煙管
 吐きだす奴は獨り言

 他作品に「散歩」「コアントロオ」「ルクソオル」があります。

 四句の押韻、五句の押韻、七句は四句と三句の組み合わせですから、後で触れるソネットの形式に譲りますが、八句の押韻もあります。ここで再び九鬼の本文を引きます。

  八句の押韻は支那では律詩が一種の解決を与えてゐるが、押韻の立 場から云へば律詩、少なくも五言律の形態は四句一韻と見ることも出 来るものである。(中略)西洋では八句の押韻は二つの四句または四 つの二句と見られた上で種々の結合をとってゐる。なほそれ以外に特 に「八韻法」(ottaba rima)と称せられるものがある。タッソオが Gersalemme liberataに用ひたもので、、先づ同種の韻を踏む六句が 交叉し、次で二句が相応和するものである。「イロイロイロハハ」の 形態をもってゐる。(以下詩句の引用は省略)バイロンもDon Juanに 八韻法を用ひてゐる。
  十句の押韻は一つの四句と二つの三句と見做されたりした上で、種 々の結合の仕方をとって来る。(「韻の形態」全集第四巻404ー4 05頁)                                                            まことに様々な形態があり変化に富んでいます。現代詩人たちは、自由に形式を作り多様な詩作品を発表しておりますが、これらの先人たちの遺産を正当に評価した上でのことなのでしょうか疑問です。自分自身をも含めてですが、あまりに自己流ではないでしょうか。音楽家は最低の基礎として音符が読めなければなりません。様々な楽器の性質を熟知していなければ音楽の創造は不可能です。画家はデッサンまたは模写から入門します。多様な色と形を駆使するにしても平面上に表現するという絶対条件のもとに、号の制約の中で自由な表現活動を行うのです。
詩は言葉の芸術であります。もちろん内容は独自のものに成る筈ですが、詩が詩として成立する条件は、何でしょう。時には初心に帰ってよくよく考えてみたいものです。                     脚韻の多様さを前にして、これらの制約を自由に使いこなした上で、なお不自由であり押韻を追放しなければ絶対に表現出来ないという内容をもち且つ独自の自由な表現形態を、必然的に自覚した本当の詩人は一体何人存在しているのでしょうか。

 さて、ソネットについての九鬼の文章を読んでみましょう。

  西洋で四句押韻と三句押韻との併用の生んだ十四行詩はすなはちソ ネットである。ソネットは十三世紀にイタリーに起こった。一対の四 句すなはち前聯八句と、一対の三句すなはち後聯六句とから成り立つ 定音詩であるが、句の総数に基いて「十四行詩」といふ名の下に総括 されることもある。しかしソネットといふ名称はイタリー語のsonore (鳴る)から来てゐるもので、il sonettoは「鳴詩」または「響詩」 の意である。その特色はむしろ韻の形態に存するので、単に行数にあ るのではない。韻が美しく「鳴る」ことを本質としてゐる。ソネット の原型にあっては前聯すなはち一対の四句は同一の韻による抱擁韻で なければならない。後聯すなはち一対の三句は適宜に押韻することが 許されてゐる。“ソネットの形態はすなはち左(本文縦書きゆえ下記) のやうになる。”


                                                   イ
    第一節  ロ                               
ロ                      
前聯       イ                                         イ
     第二節  ロ 
          ロ 
          イ
                                                     ハ
  ハ  
ハ 
    第三節  ニ 
 ハ 
 ハ 
         ホ 
 ニ 
 ニ 
後聯      その他の配列
         ハ  ホ  ホ
    第四節  ニ  ホ  ニ
         ホ  ニ  ホ
                                 
なほ前聯の押韻に抱擁韻の代りに交叉韻を用ひたり、または二度同 一の韻を踏む困難を避けて第一節と第二節とに各々異った韻を踏んだ りすることもある。しかし、十四行詩でこそあれ、ソネットの名を拒む人もある。                           ペトラルカは三百余のソネットを作ってラウラに対する戀を歌った が、彼れの用ひた形式がすなはちソネットの原型である。
 (「韻の形態」全集第四巻411ー412頁) 残念ながら、以下の引例、ペトラルカ、李白、シェークスピア、ゲーテ、ヴァレリー、人麿、車持氏娘子、憶良の見事な十四行詩は省略せざるを得ませんが、九鬼周造がその思いを込めて引用しているフランスのボアローの言葉と與謝野晶子の歌を挙げて、本章の結びとします。

  「瑕瑾の無いソネットはただ一つだけでも長編の詩の價がある」(ボアロー)

  人は黒黒ぬり消せど
  すかして見えるは底の金
  時の言葉は隔つれど
  冴ゆるは歌の金の韻  (與謝野晶子)                                             十 押韻の日本性と世界性
 九鬼周造の『押韻論』及び『日本詩の押韻』の総括である本章は冒頭で述べたような経過を辿って完成されたものですが、全集第五巻の『日本詩の押韻[B]』では、この最終章は「押韻の普遍性」と題されております。
 最終決定稿においては当時における、昭和10年現在の最新の資料まで漁渉し、押韻の日本詩における起源についても更に詳細に述べておりますし、三好達治への反論も加えられます。
 押韻の日本性について九鬼は文字通り万巻の書を引いて根気よく説明しておりますが、ここでは押韻の世界的(勿論日本をも含んでの)普遍性を歴史的に説いた部分を紹介しておきます。

  元来、押韻は決して西洋に起源をもつものではない。押韻が規範的 意味をもつて発達したのは東洋にありとされてゐる。印度か支那が恐 らく押韻の発生地であらう。『詩經』に押韻詩があるのを見ても、支 那では既に周代に押韻が行はれてゐたことがわかる。押韻の起源に関 する伝説がペルシャにあることを云ったが、ササン朝のバーラム王な どは『詩經』の時代から見ればずっと新しいことである。いづれにし ても西洋が押韻法を東洋から学んだことは確かである。ギリシャ、ロ ーマの古文学には押韻は規範として発達するに至らなかった。ただ押 韻の契機はラテン文学にあつて次第に詩の重要な要素となって来た。 さうして嚢に挙げたやうな押韻の現象がヴェルギリウスやホラチウス には時として見られた。(九鬼周造全集第四巻265ー266頁)か ういう状態の下に西洋は規範として押韻をアラビアを通して学んだの である。西洋で初めて押韻をしたのは紀元四世紀にシリアに住んでゐ た教父エフレムの作ったラテン語の詩であると一般に考へられてゐる。 紀元二世紀にかけてアフリカに住んだ教父テルトリアヌスが既に押韻 の端緒を開いてゐると見る人もある。要するにラテン文学に存してゐ た押韻の可能性がアラビア文学の外的刺激によつて完全な発達をする 機会を得たのである。さうしてシリア或ひはアフリカからローマへ移 された押韻法はアムプロジウスおよびアウグスチヌスの採用するとこ ろとなつて教会音楽と共に発達し、八世紀に至って一般化された。  (中略)要するに押韻法は東洋に発達したもので、西洋では、先ずラ テン系の文学がそれを継承して更にチュウトンおよびアングロサクソ ンの文学に伝へたのである。それ故に、西洋の押韻はいづれの場合に あつても、自国語のうちに存する可能性が外国文学の刺激によつて発 揮されたのであるといふことが出来る。仮に若し日本語の押韻が外国 文学を機縁として可能性から現実性へ移るとしても、そこには何等の 忌避すべき事実も見られない。をれよりむしろ、東洋に起源を有つ押 韻の法を、西洋に委ねて顧みず、押韻の採用を西洋の模倣の如く考へ ることが、甚だしく自己を忘却した行き方である。
 (「押韻の日本性と世界性」全集第四巻439頁ー441頁)                                    この拙いダイジェストでは九鬼周造が十余年を費やして完成した名著の表面を掠った程度でありまして、どこまでその深い内容を伝え得たか、まことに心もとない次第ですが、里村氏を初め拙稿を目にされた読者のただ一人でも、押韻に興味を抱き、九鬼周造の原著を読まれる機縁ともなれば、望外の幸福です。
 日本の現代詩は、過去に多くの遺産を持ちながら、福永武彦、加藤周一、原絛あき子、中西哲吉、窪田啓作、白井健三郎、枝野和夫、中村眞一郎たちの『マチネ・ポエティク詩集』(1948年7月 眞善美社刊)の押韻定型詩の試みを最後に、僅かに数人の詩人を除いては殆ど抹殺されており、世はまさに自由詩のオンパレードであります。このことは日本の詩人の怠慢というべきですし、一人でも多くの詩人が遅れてしまった押韻の鉱脈を次世代に引継ぎ、将来のより豊かな実りを夢見たいと思うのです。
 国際化の時代にあって、俳句という定型が世界的に認められ、多くの愛好者を生み出している時、現代詩が島国根性の自己満足のまま他者への通路を閉ざしていてよい筈はありません。九鬼周造という優れた先達の努力を無にしてはならないのです。
 現在においてもなお新鮮に響く『日本詩の押韻』の終章を共に読んで見ましょう。  

  最後になほ一つの点に注意して置きたい。日本には短歌とか俳句と か大きい魅力を有つた詩形が存在してゐる。その魅力はどこにあるか といふに、短い詩句がその短さに相応しい形式的要素を備へてゐる点 にある。短歌や俳句の謂はゆる「自由律」に対して私は、さきに示し た方向への発展(全集四巻の229頁参照*ここでは「客観的法則か らの自由を願う自由詩と主観的法則からの自由を自由の本質と信じる 韻律詩の問題」を指しています)以外の意味に於いては、絶対的に懐 疑的である。それならば、短歌や俳句は日本人の詩的要求を完全に充 して余すところがないかといふに、さうは言えない。余りに短いため に十分の内容を盛り得ないうらみがあり、連作の手法によつてもその 欠点は補ひ得ない場合がある。そこに日本詩の大体としての行き方は 詩的情操に十分の満足を与へ得るであらうか。私はそれを疑はないで はゐられない。短歌や俳句が、形式美に強味を有ちながら、内容の包 摂に短所を感ずるのと正反対に、今日の日本詩は、如何に豊富な内容 を取扱ひ得ても、形式上の欠陥のために、美的要求を充して詩の職分 を全うすることはむづかしいのではあるまいか。私の考へでは、押韻 の採用は日本詩に生命を与える一つの方法であると思ふ。内容が豊富 であればあるほど、詩として立つには、形式を強調して平衡を保たな ければならない。今日の日本詩は自己に対しても他者に対しても魅力 が甚だしく欠けてはゐないだらうか。短歌や俳句に対抗して狭義の詩 の存在を擁護するためにも、押韻の魅力に訴へる必要がありはしまい か。押韻は詩にとつて有力な武器である。あれを捨てては短歌や俳句 に十分に拮抗することは困難ではあるまいか。なほ押韻の試作が拙劣 であるといふやうな現実の事実から、押韻詩の未来に対する懐疑が帰 結されてはならない。私は未来に於いて、天才詩人が出て来て、日本 語の有する可能性の中から、真に美しい押韻詩を生んでくれることを 希望してやまない。私はこの希望を抱きながら、またこの希望の実現 される日の到来を信じながら、単に理論的指針のやうなものを提供す ることで満足する。今日の日本詩壇になくてならぬものは、ただ美だ けへの絶対的盲目的帰依と、詩神のために悪戦苦闘を辞さない雄々し い魂とである。南米ペルーの征服者ピサロであったと思ふが、或時、 剣を抜いて地上に円形を描いて、部下に向かって、「目指す先には金 山がある。進勇気あるものは、この円内に入れ」と叫んだといふ話が ある。現在の日本詩が押韻を採用するのは、円内へ身ををどらせるや うなものではあるまいか。それは万難を排して進む勇気ある者にのみ 要求される決断であるが、目指す先に黄金の山が約束されてゐないと 誰れが云えるであらう。 
 (「押韻の日本性と世界性」全集第四巻 449ー451頁)

 さて、長々と九鬼周造を再読してしまいましたが、この拙論の初稿は1992年7月全電通文芸連盟発行の『ぱるす』誌24号に掲載した「九鬼周造『日本詩の押韻』を読む」を基にしておりますことをお断りしておきます。『中庭』は1991年5月創刊当初精力的に押韻論を掲載しました。論考一覧を下記に掲載しておきますので、お読み戴きたいと思います。
1991年9月 2号
     梅本健三「現代日本語の韻律はゼノンの亀か?」   
     津坂治男「詩のリズムと音歩」            
 1992年2月 3号
     特集 <詩のリズム>
     松本恭輔「五七調は3拍子、七五調は4拍子」
     津坂治男「音歩と律・韻」
     梅本健三「韻律連邦論ー音節言語としての現代日本語」
1992年6月 4号
     特集 <九鬼周造を読む>
     飯島耕一「押韻詩という<おぞましき詩>の方へ」
     津坂治男「出会いの楽しさ」
     山口暎子「『九鬼周造…押韻論』を読んで」
     桜井雅子「押韻論を読んで」
     中村美津子「コールユーブンゲンのように」
     小島都「その可能性の追求…『日本詩の押韻』について
     鏡たね「九鬼周造『をりにふれて』他を読む」
     梅本健三「意見・中学生が読める『日本詩の押韻』を」
1992年10月 5号
     特集 <続・九鬼周造を読む>
     梅本健三「九鬼周造の遺産の継承」
     田貫諦市「自己の言語回路からの自由へ」       
1993年2月 6号
     特集 <日本の押韻詩・定型詩の歴史>
     飯島耕一「江戸期の押韻定型詩入門の入門」
     津坂治男「押韻による“歌い返し”ー岩野泡鳴の場合ー」
     鏡たね「四行詩の試み」
     山口暎子「島崎藤村」
     飯島耕一「二つの大戦後の二篇の詩」
     桜井雅子「多田智満子の詩業」
1993年7月 7号
     特集 <日本の押韻詩・定型詩の歴史>
     飯島耕一「江戸期の詩入門(補遺)」
         「二人の哲学者と明治の詩ー井上哲次郎と大西祝」     津坂治男「情と錘りー晶子と中也の場合ー」
     小島都「土と地面ー室生犀星の“触り角”ー」
     飯島耕一「佐藤春夫」
     津坂治男「詩の“かおり”(八木重吉)」
     山口暎子「八木重吉の人と作品」
     梅本健三「未生の花、吉田一穂と韻」
     鏡たね「吉田一穂“詩は垂直に来る”」
     山口暎子「伊東静雄の口語体詩」
1993年10月 8号
     梅本健三「現代語リズムと厳密定型」
 これらの論考を支えとして会員たちは実作に励んで来ました。「『中庭』の諸作品に象嵌されている押韻にも、正直申しまして、なかなかしっくりわたしの耳になじんでまいりませぬ。」とのご指摘には、いかんとも応えようがありませんが、それはひとえに歴史の浅さとでも弁明せざるを得ません。九鬼周造も『日本詩の押韻』の末尾でその点について「押韻の試作が拙劣であるといふやうな現実の事実から、押韻の未来に対する懐疑が帰結されてはならない。」と述べざるを得ませんでした。その理由はすでに九鬼の論考の中で明らかであると思います。まさに「数千年の伝統ととおしてみがきあげられた真正品」と比べられては一言もありません。いやむしろそのような高みでの比較がなされることは幸福な事態であると申せましょう。ただ「模造品」とはあまりにも酷い言い方であると思います。
 日本の近代詩は明治15年(1882年)に出版された『新體詩抄』が初めであり透谷の『楚囚之詩』が明治22年(1889年)のこと、しかも江湖の喝采を博した藤村の『若菜集』は明治30年(1897年)であります。2000年の今日まで数えてもたかだか100余年しか経ていないのです。もちろん短歌や俳句は日本の伝統詩形としてゆるぎない地位を得ておりますが、現代のいわゆる「詩」というジャンルは西洋から来たものです。「模造品」は現代詩のすべてに冠されてある宿命なのです。その近・現代詩の浅い歴史の中で昭和23年(1948年)に出版された『マチネ・ポエチック詩集』の実験は戦後という時流の波にあっという間に呑まれてしまいました。現代詩の歴史は何と言ってもまだまだ浅く、とてものことに完成の域にたっしてしまった訳ではないのです。そのような大きな詩の流れの中で『中庭』は1994年5月9号、1994年10月10号をもって第一次の運動が一段落し、現在の第二次とでも位置付けられる横書きの新形式での『中庭』は1996年6月に11号から初めて今日今号の22号に至りました。94年10月から96年6月までの2年弱の空白期間が入ったとは言え、やっと9年目を迎えたところです。どうか長い目で見守って欲しいと思います。なお、「押韻定型詩の創作・翻訳・評論」を専門に精力的に研究発表している大変元気な木村哲也氏の個人誌『調べ』が今年10号を数えました。若い学生諸君の新鮮な作品等も掲載されていて頼もしい限りです。この機会に紹介しておきます。(連絡先:詩歌韻律研究会〒040-8567北海道函館市八幡町1-2 北教大函館校 木村哲也研究室 TEL:0138-52-1185/FAX:0138-44-4243)

(掲載誌『中庭』22号 2000−7−1発行より)

あとがき
 いまごろこのような「古証文」を提出するのは場違いかもしれませんが、何人かの方々から「押韻」についてのご質問を戴きましたので、この際提示しておいた方が良いと考えました。猶、ご参考までに、詩誌『中庭』は現在2003−12 で31号。『調べ』は2003−9で19号まで出ています。


散文(批評随筆小説等) 九鬼周造著『日本詩の押韻』再読 Copyright 狸亭 2004-02-04 09:58:46
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