いのちの感性
前田ふむふむ

満月と星たちが次々と、深い海底に落下して、
水鏡には黒褐色だけが見える。
孤独になった空は雲を身篭って、
粉雪を定まらない海底に落としてゆく。
きのう、海辺の空を眺めて笑っていた僕は、
今日、海底の上を、不安な顔で当ても無くさ迷う。
海底にぶつけた今日の叫び声が、
わずかなブレをおこして振動している。
子供たちは歓声を上げる。
海底の岩を押しつぶす重力のような過去を知らない子供たち、
過去を忘れた子供たち、忘却の恐怖を知らない子供たちは、
過去をもたないからこそ、
満月の頂を溶かす炎になって、
十分な過去とともに、豊穣な海の幸を啄ばむだろう。
僕は、目覚めた青い恒星の上で、風の粒子のように、
夥しい曖昧な過去のなかに溶けていけるだろうか。
適わぬならば、僕は、濁った海底の塩をすすった都会の喧騒に佇むひからびた体を抱えて、鮮やかな今を、霞みかけた棲家の中に導いていけるだろうか。
朝、窓を開けたとき、世界が剥製になって浮かんでいる。すべての繊毛たちは戦慄する。嗚呼、天使がくれた葡萄酒が、精霊に飲み干されて仕舞っている。
僕は、分かっていた、記憶していた、運命の爛れた灌木の中で、
始めから死んでいたという事実、
そこからすべてがはじまるという事実を。
空よ。太鼓を鳴らして下さい。
灯台のひかりで、惨めなぼろ船が酔っ払い、千鳥足で戻ってくる。
船の体液には僕のいのちが宿っている。
空よ。嵐が来る前に、知らせて下さい。
僕が汽笛を精一杯鳴らせば、大地は翼を携えて、
船を地上に持ち上げる。船は全身に帆を張って、
空から降ってくる、
絶え間なく忘却をもたらす血液を、受け取るだろう。
その時まで、暫く、愛のことばをいくつか覚えておこう。
すべてがはじまる、そしてすべてが通り過ぎるその時のために。


自由詩 いのちの感性 Copyright 前田ふむふむ 2006-03-02 21:05:57
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