やまびとの詩—散文詩
前田ふむふむ


       1
純白の太陽が沈まない世界で、峻険な断崖が水平な時間の裂け目に現われて、素肌が剥き出しになったやまびとたちが戸惑っている。首のない禿鷹の幽霊に急き立てられて、断崖を昇りきると、空の胎児を身篭ったような永遠に地平線の無い、殺伐とした荒野が広がっており、驚くことに目の前には、断崖の途中で墜落したはずの、仲間の累々たる屍の姿が、横たわっているのである。徐に、足を進めてみると,そこに新たな道が生まれた。生き残った者たちは、恐る恐る、歩み続けると、次から次へと道が出来ていった。突然、世界の一番高いところに届かんとする、断崖が現れて行く手を塞いだ。やまびとたちは、咄嗟に振り向いたが、追い立てる首のない禿鷹の幽霊はいなかった。だが、首のない禿鷹の幽霊に、遥か遠くから、常に監視されている恐怖を背中に感じていた。
       2
深さのない空には顔の無い、透けている鳥が、飛んでおり、痩せた大地は、度々、激しい地震で動揺した。緑色の太陽がひかりを出さずに輝き始めた日から、やまびとたちは断崖の麓に住むことに決めた。断崖の頂からは、激しく海鳴りの音がしていた。やまびとたちは、海鳴りが何故なるのかを、問いただす者はいなかった。
       3
やまびとたちは、死んだ仲間の屍を集めて埋葬を済ませてから、男は手に鍬を持ち、荒れた土地を耕し、食物を作った。女は糸車で衣服を作った。断崖に背を向けて洞穴の家を造った者は、閉塞した断崖の麓の生活の歴史を書き綴っていった。穏やかな日々が続き、いつしか、誰もが過去のことを忘れていった。想像以上に収穫のあった年に、若いやまびとの一人が、「断崖は無い」といった。それを知った多くのやまびとは、家の中に閉じこもり、壁に掛かっている割れた鏡にむかって、怯えながら、亡霊のような眼で自分の姿を眺める日々が続いた。
       4
ある日、猿の仮面を掛けた黒装束の部族がやって来て、断崖を登り始めた、彼らは楽々と登り切ると、断崖の上から,雄叫びを上げて、麓にいる者を臆病者と嘲った。それから、死者を埋葬する細々しい塔と、子供の猿を生贄にして捧げる祭壇と、極彩色の大伽藍をたくさん建て、部族を服従させる厳格な規律を創り、生活を始めた。やまびとたちは、断崖の麓で、槍のような侮辱を受けたが、気にしない素振りをして、他人事のようにやり過ごしたが、やまびとたちは、小さな会合をもっては、個人的に内心の憤りをぶつけたりした。そして、行ったことのない七つの海をめぐる航海の話をして、こころを慰めたが、実際、夢のような場所に行こうとした者はいなかった。この断崖の麓から行ける訳がないといって、お互い諦めることで了解しあった。
      5
太陽が青くさらさらと輝くひかりを取り戻した時、猿の仮面を掛けた部族は喝采したが、断崖の上は、半分が欠落した世界に変貌した。全てが半分欠落して、林檎を手に取ると果実は半分しかない。その半分には、水の無い小川が流れている。異彩を放つ大伽藍の多くは、その半分には、木の無い森が抽象の風景を見せている。その中の水銀が流れる直立するみずうみには、溢れるばかりの長さの無い青蛇が泳いでいる。暑い夏の半分に雪が降りそそぐ片輪の季節が過ぎていく。だが、猿の仮面を掛けた部族たちのなかでは、世界が半分欠落していると気付く者は、誰もいなかった。
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夕陽が一面、血の色をしていた日に、断崖の上で戦争が起こった。それは、一人の子が親を殺すことから始まった。次に弟が兄を殺した。猜疑心と恐怖が包む、殺害の連鎖。殺害の輪が広がり、殺戮は一日中続いた。最後の一人が死に絶えると、世界中のすべての禿鷹の大群が、大伽藍を襲った。悉く破壊尽くされた断崖の上を静寂が包みこみ、断崖の麓にまで死臭が漂い始めた。その死臭はいつまでも、途切れることが無かった。やまびとたちは死臭を嗅いではお互いに断崖に、登らないことを確認し合った。やまびとたちは死臭を嗅ぐことで穏やかな幸せを、離すまいと願った。
そして、いつものように虚ろな眼で断崖を眺めた。
今までと変わらず、激しく海鳴りの音が聞えていた。
しかし、やまびとたちが思っている峻険な断崖は、始めからどこにも無かった。
眼の前には、見たことの無いいくつもの帆柱をもつ大船が数隻、港の岸壁に繋がれていて、遥か広大な海原が広がっているのだった。



自由詩 やまびとの詩—散文詩 Copyright 前田ふむふむ 2006-03-02 00:11:29
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