「1.せつなさとゆう魔物」
umineko

「1.せつなさとゆう魔物」

せつないとゆうことばをたどれば、刹那に通じるのだろうか?それとも漢字そのままで、切ない、つまり断ち切れないってことかしらん?とゆうことをチョコレート頬張りながら考えてみたりする午前5時。明日も朝から仕事しごと。

突然ですが。

詩、という文学形態は絵画と非常に通じるものがあると思いますね。たぶん送りだす側にはなんらかの意図があるのですけど、受け手の方は自由裁量なもんだからいかふうに姿が変わってもそれはオッケー。もう作者の欲求からはるかに離れちゃってても、それはそれでかえって評価が高い、とゆう極めて絶望的な状況さえあり得るわけで。

それは敗北だと思うわけです。

タマシイの細胞膜をするりと透過し、中枢で静かに感染してゆく、そんな風な絵画ってあるじゃないですか、やっぱり、そゆ作品こそが「素敵な」作品であると思うわけですね。それはもちろん「詩」でも同じで。

ことばも記号である以上、学問的にあるいは系統的に眺めてみた時に、どれもこれも手あかのついた、陳腐でやるせない存在なんだとわかって愕然とする、それはわかる。で、ことばを解体しようとやっきになる。そうして出てきた文字列を「詩」として提示する。

そゆ作為はとってもうさん臭いです。悪いけど。

なんか、偉い「詩人」さんになればなるほど、視線が分析的になるような気がしますね。それってどーなん?とか思ってしまふ。逆にそうでない人って、妙にメルヘンに走ったり、子供におもねったりする気もしますが、うーむ、見ようが悪いんでしょうか?(笑)。

たとえば、せつない、とゆう単語がある。せつない詩を書いて下さい。誰にも似ていない、自分のことばで。ぢぶんの目指したいのは乱暴に言えばそうゆうことかもしれない。感情とゆう目に見えない温度を可視化すること。

そう。

感情とことばは、元々別世界のものなのです。たとえば数字が、便宜上の尺度でしかないのと同じように。「1」と「2」の間には無限の、我々が数字と呼んでいる無数のドットが並んでいる。感情とことばも、ちょうどそれと良く似てる。

感情を正確に表わすことばなど、存在しないのです。だけど。

ボクらはとても伝えたがる生き物だから、どだい無理だとはわかっていても、ついついことばに頼ってしまう。もちろん自分もね。それゆえ「伝える」って側面を、ひどく大切にしたいわけですよ、この自由詩とゆうプラットフォームにも。

まあ自分が天才的ヒラメキとかに無縁であるとゆう証明かもしれないですけど(笑)、とにかくね、あまり意味を解体した作品は書けないし、書く気もないですね、今んとこ。ただまあ、そゆのがなんか崇高ってゆう風潮がどうも詩壇ってよばれるところににあるような気がするんですけども。

せつない詩を書いて下さい。誰にも似ていない、自分のことばで。

ところで詩壇ってどこ?<これってピー、ですか?(笑)




      

         (初出 「世界中の詩人を敵に回しても」:over the sin 詩人シナプス)

 


散文(批評随筆小説等) 「1.せつなさとゆう魔物」 Copyright umineko 2006-02-28 07:53:54
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