死神と私 −雪溶け−
蒸発王

雪の降った夕暮れ
すっかり冷え込んだ空気の中で
黒いコートのポケットに手を入れると
黒い皮製の手帳にいきあたりました


そう
全てはこの手帳が始まりでした


死神の僕にとっては一週間前みたいなものですが
人にとっては何十年もの前の年末のこと

年末には自殺者が増えるので
僕はとても忙しくて
信じられないミスをしてしまったのです
大切な大切な
『鬼籍』の入った手帳を落としてしまいました
僕の手帳の中にはむこう五年間で死ぬ人間の名前がびっしり入っています
機密書中の機密書です
気がついた時には年があけていて
必死で探しまわって手帳を見つけたら
手帳は一人の男に拾われていました
男は手帳の中に自分と妻の名前を見つけ
五年後に自分と妻が死ぬことを知ってしまっていました
男はいくぶん痩せた表情で僕を見ると
その瞳にだけは煌煌とした光をともして

僕に取引をもちかけました


自分達には生まれたばかりの娘がいる
まだ名前もつけていない
娘の名付け親になってくれ

そして
自分達が死んだ後に後見人として
娘の面倒を見てやって欲しい

もしもこの条件を飲めないならば
この手帳は返さずに燃やしてしまう



取引というより脅迫でした
それでも
彼の瞳に宿った光が
僕の興味の琴線を揺らしたのです
僕は契約を結び
その時
空にちらついていた綿毛
冬の白い風物詩の一文字を娘に与えました


そうして引きうけた娘が年をとって
雪の降った夕暮れ
この墓石の下に眠っています
僕は死神だから死に敏感で
いつも薄っぺらな冷たい涙を流していたというのに
彼女の墓前を目の前にして
どうしてか涙一つ流せません
ただ体中が軋んで何かに押しつぶされてしまいそうで
なかなか立ち上がることができません

目の前ある墓石には僕のつけた名前が刻まれ
その名のとうりの白い雪が積っています
墓石の雪を眺めながら
記憶をたどっていきます

夜の腕や蒼い電車を心配した冬
朝焼けの起こし方を教えた春
初めての家出をして結婚式に無理矢理僕をひっぱった初夏
新しい家族のために僕が家を出た真夏
さかしまの秋雨を標になぐさめた秋

いつも娘の言葉が
泣き顔が
笑い声が
彼女の全てのぬくもりがあって
僕は季節を感じていたのです

全てのぬくもりが


季節に



ふつり   と
瞳の奥が裂けたような気がしました
目蓋の裂け目から頬が焼け焦げるような
高温の
涙が
落ちて
墓標の雪を溶かします
平生に流す冷たい塩水ではなく
熱い火傷をするような涙が
雪を溶かして娘の名前をあらわにしていきます
暖められた僕の目が煌煌と燃えているように感じた時
ずっと前にあの男が宿していた光は
このことだったのだと思い知りました


ああ

くしゃくしゃに泣く僕を見て
きっとあの娘は笑うのでしょう
涙で溶けた雪を見て
次の季節の訪れを笑うのです

ならば
季節に追いつかれる前に
僕は立ち上がりましょう



そう
雪は溶けて


春が

また来ます







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自由詩 死神と私 −雪溶け− Copyright 蒸発王 2006-02-26 20:26:44
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