死神と私 −真夜中に降る雨−
蒸発王

“真夜中に雨が降ると良いですね”
押さえ切れない怒りの中で
死神の言葉はそれだけしか聞こえませんでした



息子が一人暮らしを始めました
あの子にも手がかからなくなって
お互いに二つの手の平を眺めながら
歳をとったものだと溜息をついた昨今

夫が逝ってしまいました

死神を名付け親に持つ私です
そんなに驚きはしませんでした
葬儀屋に連絡して
お香典返しの準備をして
喪服につける真珠の首飾りを探して
あっというまに葬儀の受けつけに座っていました
黒い群集が棺の周りを埋めていくのを
まるで一斉に飛び立つ雀の数を数えるように
ぼんやりと見守っていました


死神は夫が死ぬのが分かっていたらしく
夫が死ぬ前夜からおいおいと哀しみの前倒しをしていて
葬儀当日には腫れたマブタをショボショボさせて席に座っていました

息子は初めて着た喪服の中に窮屈そうにおさまって
普段は吸わない煙草をガブガブと吸って
煙で目がしみるんだ と涙目の言い訳をしていました

私は



私は涙を流すと
涙と一緒に夫の思い出も出ていってしまう気がして
ただ夫の笑う写真を睨みつけていました
沢山の人々が夫を思い出して
夫の思い出を涙に溶かして体外に排出しています
解っていたことです
識っていたことです
驚いてなどいません
なのに心は騒がしく
死化粧によって笑った夫の口元が憎たらしくて仕方がありませんでした
怒りで震える私の隣りで

“真夜中に雨が降ると良いですね”

と死神が慰める様に言うのが
やっと聞き取れたくらいでした



火葬が終わって三日たった夜のことです


細くたなびく前線が町全体を覆いました
秋雨です
銀糸の雨が空と大地を結んでは切れ、結んでは切れ
たえまなく降り続けています
窓越しに手を伸ばし始めた冷気にカーテンを閉めると
けたたましくドアが叩かれました
開けるとずぶ濡れの死神が立っていました
雨が降っているよ と死神は笑顔で言うと
傘もささずに私を雨の中へひっぱり出しました


初秋の暑さもどこへやら
秋雨の冷気は街中にまんべんなく染みこみ
視線を下にするとアスファルトの灰黒が黒光りをしています
細めた視界の端に
家の前にできた大きな水溜りが入りました
空から降り注ぐ雨の波紋がゆらゆらと揺れる
その
水溜りのさかしまに


夫が立っていました

水溜りのさかしまに映る夫の顔は
泣いているようにも笑っているようにも見えました
夫は呆然と見つめる私に音もなく
口元だけを動かして何か伝えると
また水溜りに雨粒が降り注いで波を起こし
波が晴れた水面には
もう夫は居ませんでした


真夜中の雨は
空の彼岸と地の彼岸をつなぐ糸だから
その糸をたどって
亡き人がさかしまの水面に会いにくるのだと
言われて視線を上げると
死神が真っ赤な傘をずぶ濡れの私にさしています



“真夜中に雨が降ると良いですね”

という死神の慰めを聞きながら
今なら泣けると妙に安心して

嗚咽交じりの声で
さっき夫がしたのと同じように唇が動きました



『ありがとう』





自由詩 死神と私 −真夜中に降る雨− Copyright 蒸発王 2006-02-20 21:33:07
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死神と私(完結)