TO SEE IS TO LOVE.
大覚アキラ

ポリスの名曲に、『見つめていたい』という邦題の曲がある。“好き”という感情はまさしくこの“見つめていたい”という気持ちなのではないだろうか。
好きなものは、どれだけ眺めていても飽きないものだ。恋愛なんかでも、好きで好きでたまらない、という恋愛初期にありがちな盲目的な時期というのは、相手のコトを何時間でも見つめていたいじゃないですか。
中学の時に英語の授業で「To see is to believe(見ることは信じること=百聞は一見にしかず)」というのを習って、ははぁんナルホドね、と思ったが「To see is to love(見ることは愛すること)」というのも真理ではないかと思ったりする。
そういう“好き=見つめていたい”気持ちを、ずーっと同じテンションで維持するのは、それはそれでエネルギーが要ることだったりもする。当然、気が変わって嫌いになることだってあるし、そこまでではないにせよ、飽きがくることもあれば、テンションも下がることもあるでしょうよ。
“好き”という感情が日常化して、自分の中でスペシャルなものではなくなってくると、人はいつしかその対象を“見なく”なってくるものだ。字義通り、“見なく”なるのだ。

サボテンが枯れた。いや、正確には枯らしてしまった。すごく気に入って、一目惚れして買ったのに。買ってからしばらくは、毎日のように飽くことなく眺めていたのに。いつの間にか、ぼくの心の中で、そのサボテンが好きだという気持ちがスペシャルなものではなくなってしまい、日常的な諸々の些事に埋もれてしまった。そして、ぼくはサボテンを“見なく”なってしまっていたのだ。
ごめんな、サボテン。

そんな風にして、ホントは大好きだったり大切だったりするのに、いつのまにか“見なく”なってしまって、気がついたら失ってしまうものって、意外とあるような気がして、なんだか怖い。


散文(批評随筆小説等) TO SEE IS TO LOVE. Copyright 大覚アキラ 2006-01-18 18:52:04
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