今日も詩のある夕暮れを
umineko
昔、さ。
中国とか。日本とかでも、合戦の前に詩を詠んだりしたらしいね。辞世の句じゃなくてもさ。これから戦いって時に、詩ですよ。それがたしなみっていうか、明日死んじゃうかもって時に、詩がそこにある不思議。
翻って現代。戦場はどこかな。オフィス?現場?社外プレゼンテーションあーたら?交渉のためのだだっ広い会議室。大きなガラス窓。
だけどそこに詩はないと思う。あるのはレジメの確認とか。そらんじた時候の挨拶とかさ。そんなものだけがぐるぐる。ぐるぐる。
あるいはアスリート。トラックの片隅で、アナウンスを待つ。そこにあるのは、むしろ虚無だ。そこにも詩はいない。カミサマは少しいる。とても無口な。
その違いは何なのだろうって、ときどき、思う。詩とともにある戦いと、詩がそこにない戦い。かつて佐野元春が、すべてのことばにはメロディがついている、っていってたけど、そんな特別な才能でなくても、詩はいつだってそこにあるのにね。ことば。
詩を書くためには傍観者にならなくちゃいけない。黒いコートを着こなした早口の警部補のように、冷静な観察者。
観察する。検証。構築。そして、表出。
観察する対象は、それが内的なものか外部のものか、それは、問わない。
私は。観察する人が好き。観察し咀嚼して表出しようとするその態度が好きだ。その結果は、特に最後の表出の部分は千差万別なわけですから、まあいろいろなんですけどね。
観察するために、その場を離れる。合戦の前に、それはふるさとだったり、かけがえのない人だったり、あるいはここでない別の次元のその場所に、武者たちは思いをはせる。当事者であって観察者。それもひとつのバランスだった。
今。観察者と当事者は別々のカテゴリーにくくられてしまった。そうだろうか。本当は、同一の意識同一の肉体よりそれは発せられるべきではないだろうか。
詩人、っていうカテゴライズが、実はあんまり好きじゃない。別にいいじゃん。詩を書く人で。気負いもなくその瞬間を、当事者と観察者をさまよいながら、ゆるゆるいくよ。
まじわらない。頼らない。ただ並んで歩いていく。
そんな風な夕暮れの、冬の歩道のように。
詩の意味と愛の意味。
少しだけ、似てる。