『偏見』というしがらみの中で。。。
Lily of the valley

子供の頃には、そんな言葉は知らなかった。
きっと、誰もがそうだったのだと思う。
けれども、いつの間にか植えつけられ、いつの間にか、当たり前のようになっているものがある。
そのことの重大さに、誰もが見て見ぬ振りをして通り過ぎている。

『偏見』
この言葉の意味を、正しく捉え、正しく使っている人は、一体、全体の何%なのだろうか。

僕の右足は、他の人と比べると、ほんのちょっと自由が利かない。
別に普通に歩けるのに、時間が経つと踵がしびれて力が入らなくなる。
そんなわけで、普段はちょっとした歩行補助具を使っているわけだけど、それを健全な目で見てくれる人は少ない。
例えば、学校で先生に会ったら、必ずこう聞かれる。
『どうしたの?』とか、『まだ良くならないの?』って。
これくらいは、まだましな方。
僕自身、気にもとめていなかった。
でもこの間、とある人に、『そんな足なのに、来年も学園祭やる気なの?』って言われて、すごく腹が立った。
腹が立った、というか、無性に悲しくなった。
自分のことを、ほとんど知らないような人が、『そんな足』って言う。
『どんな足なんだろう』とふと考えてしまった。
しかも、『・・・やるつもりだけど・・・』って答えたら、『そうなんだ?そんな風に思ってなかったよ。びっくりした〜』って、軽く笑われた。。。

自分では、何も気にしてなかったから、周りの目なんか考えてもいなかったけど、意外と見られてるものなんだって気づいた。
電車に乗っても、こっちをジロジロ見てくるだけで席を立つわけでもない人。
エレベーターを待っていても、順番を平気で割り込んで乗っていく人。
お店に入っても、チラチラこっちを見ながらこそこそ話をしている人。
みんな、ただ見ているだけ。
なのに、なぜかすごく胸が苦しくなる。
気にしなきゃ普通なのかもしれないけど。。。

この前も、こんなことがあった。
友達がバイトしてる電気屋さんに行ったとき、その友達の嫌っている店員のおばちゃんが、こっちをすごく見てきて、気になったから友達に言ってみたら、その友達が店員の人に言ってくれたらしい。
でも、そのおばちゃんから返ってきた返事は、『あの人の被害妄想なんじゃないの』だった。
確かに、僕の思ってることは被害妄想なのかもしれない。
ただ、悲劇に浸っていたいだけなのかもしれない。
でも、感じる側の主観は、考えてもらえないんだろうか。

学校にいても、スーパーにいても、どこにいたって感じてしまう。
人の言葉の節々が、視線が、妙に気になる。
友達の言葉でさえ、気にしてしまう。

僕の右足は、確かに少し不自由なのかもしれないけど、それが不幸なことだなんて、ハンデだなんて、思ったことはなかった。

『ハンデを背負ってる』
そんな風に感じさせているのは、勝手な想像で人を差別している人間なんじゃないだろうか?
だから、小さな子供までが、『あのひとってしんたいしょうがいしゃなんでしょ?』なんて母親に聞く。
その母親でさえ、『そうね、可哀想ね。』なんていうだけで、バスの席を譲ろうともしない。
そんなだから、『偏見』も、『差別』も、意味を知らないまま使うような人が生まれていくのではないだろうか。

偏見の目で見られ、他とは違ういらぬ扱いを受けることが、逆に僕を孤独の中に閉じ込めていく。
こんなことを思う僕は、自分勝手なのでしょうか?
これは、ただの馬鹿げた被害妄想なのでしょうか?

みなさんはどう思いますか?


散文(批評随筆小説等) 『偏見』というしがらみの中で。。。 Copyright Lily of the valley 2005-12-24 09:57:20
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