視覚詩についてのお勉強
ふるる

詩を読んでいると、文字や文字列や余白が絵として見えることがままあります。
私は言葉のかもし出すイメージや雰囲気その他もろもろだけじゃなくて、そういう見た感じも含めて詩が好きなんだなあと、以前こちらで方法詩というのを試された方がいて、それを見て気づいたのです。

それで、視覚詩というものに興味がありまして、色々勉強しようかなあと。


日本では、視覚詩は1950年後半〜1970年後半の20年でさかんでした。

(昨日は1970年後半で一応終焉と書いたのですが、それは誤りでした。現在までも、その流れを継いだ人々が活動を続けています。例えば、(ここから先は興味のある方で)
1979年から発行の同人誌「gui(ギ)」(日本の視覚詩の先駆者であった北園克衛のモダニズムの流れを汲む奥成達、藤富保男を中心に、ジャンルも年代も作風も個性も異なる強烈な才能が集まって、自分勝手に遊んでいるおもちゃ箱のような詩誌)や、1994年から発行の同人誌「δ(デルタ)」(言語(ラング)の壁にとらわれない新しいエクリチュール(書法)の実践の場としての詩誌)
などの詩誌で視覚詩は発表されていますし、その中でも高橋昭八郎さんという方は、海外などでも個展を開くなど、精力的に活動なさっています。2002年には北園克衛の生誕100年イベントも催されています。今年10月には、「高橋悠治、渋谷毅による「PLAYS 北園克衛・ERIK SATIE」」なるコンサートがあったらしいです。行ってみたかったなあ・・・)

で、昔の話に戻りますと、
VOU(1935年発行 主催 北園克衛)とASA(1964年発行 主催 新国誠一)という二つの詩誌があって、主義主張が対立していたらしいです。

ええと、その前にブラジルやヨロパで「コンクリート・ポエム」というのがあって、私が平たく理解すると、
文字を、ある形と音をもった「もの」として見て、紙の上に配置して、
それが詩情をかもし出す、というものです。(紙の上だけではないらしいです)

普通は詩は文字の意味でもって色々書いていくのですが、形と音だけでやろうよ!ということだと思います。

言葉や文字って、普段は意味ばっかり追ってたけど、形や音も素敵なんじゃないの?
ってことかなあ。

で、「コンクリート・ポエム」にも影響を受けた二つの詩誌の考え方です。

ASAの考える視覚詩
・言葉は物です。
・言葉を物として扱い、配置して詩を書きましょう。

VOUの考える視覚詩
・言葉すらつかわなくっていいんじゃないの〜?文字の書いてあるものをコラージュしたり、写真とかでも。

それで主催者の方が亡くなってしまったので、その運動は終わってしまうのですが、(というのは嘘で、終わってませんが、盛んだった頃に比べたら、マイナーになってしまったかも)
今も日本で精力的にやっている方はいらっしゃるのでしょうか?
(↑教えて頂きました。高橋昭八郎さんという方です。多分、そのほかにも沢山いらっしゃるのでしょうね。読者さん、ありがとうございました!)

入沢さんなどは、文字の配置の効果というのを理解して、うまく利用していらっしゃいますね。
(あくまでも利用であって、文字や言葉を「もの」「道具」にはしていませんが)

詩学で特集された、今のヴィジュアル・ポエトリーの写真を見る分にはASAとVOUの考え方が両方入っていて、文字や言葉を「もの」として配置してあるもの、文字や言葉を「もの」として、その意味も含め何かを表現するもの、文字の書いてあるものをオブジェ(芸術作品)として扱うもの、色々ですね。
が、どっちかというと詩情の表現みたいなのが目的じゃなくて、
芸術作品の中の1つの要素として文字を使っているという印象を受けます。
あ、同じことなのかな?

けど、私は詩情と芸術は似ているけど微妙に違うという気がしていて・・・・。
激しい芸術というものに比べて、詩情はお綺麗な感じ。
芸術が全てを破壊し、同時に生み出す神のものなら、詩情はかわいらしい人のもの。あんまり怖くない。
音と、意味と、形で、時代や人によって受け取り方、咀嚼の仕方が違う「文字」を使ってるところが、
その文字を、人のちっさな脳みそを通して、ちっさな意味に変換してしまうという小賢しさがこのかわいらしさを生んでいるのかもなあと。

詩は言語の芸術とはあんまり思えない。詩は詩情を現していれば写真でも、物でも、絵でも、絵文字でも、音楽でも、詩だ。と思う。
(私の敬愛する詩人田中冬二は、「詩は芸術である」と言っているので悩ましいのですが)

何か果てしなく芸術に近いんですが、最後の最後で人の手でぷりっとかわいくまるめこまれてしまう、あるいはどうしても「意味」が人格みたいなものを持ってしまって、自己主張してしまう、それが詩ってものかなあと。

でもそのへん、文字と意味とか、(ソシュールは少しだけ分かった気になった)記号が人に与える影響とか、もっと勉強しないとわからないです。

結局、視覚詩って、「文字(の意味)を使ってなくても詩なのか、どうか」っていうことに行き着くと思うのですが。。。

方法詩は、読んでみたけどさーーーーっぱり分からなかったです。ほんとに。
何だろう・・・文字から意味を排除することに意味がある、みたいなことかなあ。
あ、姿形よりも、作った方法の方を見てくれよ、ってこと?
いやいや、言葉の意味を疑ってみようよってこと?

続く。

参考にしたサイト↓

建畠晢 「日本の視覚詩の運動について --- VOU と ASA を中心に」
http://bunko.tamabi.ac.jp/bunko/kitasono2002_trial/k-tate.htm#1a

多摩美術大学附属図書館「瀧口修造文庫 / 北園克衛文庫」
http://bunko.tamabi.ac.jp/bunko/preface.htm

高橋昭八郎個展「反記述による詩」
http://www.mars.dti.ne.jp/~4-kama/sho8ro/index.html


未詩・独白 視覚詩についてのお勉強 Copyright ふるる 2005-11-16 00:41:52
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