繰り返すものたち/生得(こもん氏の作品について2)
渡邉建志

承前 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=33616


繰り返すものたち


ひとつの車輪が回っていった http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=41403 より



きみがぼくを迎え入れて、ただ
きみがぼくを
迎え入れて、ただきみが
ぼくを迎え入れて、
ただきみがぼくを迎え入れて、その

夜の
むこうでは



development/発展というものがある。これが音楽を前へ動かしていく、とL.Bernsteinは若者たちに語りかける。一番最初に来るのがrepetition/繰り返しというものである。子どものやり方である。カナダが熱帯だということを主張したいときに、大人は「例えばロッキー山脈の頂上で冬の真夜中だって30度だぜ」とか「カナダ中南部の何とか地方では河に熱帯魚が」とか、さまざまな例を挙げて説得しようとする。子どもはただ「カナダは熱帯!カナダは熱帯!カナダは熱帯!だもん!」と何度も言って自分の主張を相手に叩き込む。ポピュラー音楽のやり方がこれで、repetitionによって頭にメロディーをインプットさせる。さて、その次に来るのがvariation/変奏である。僕の好きなJazzなんかこれだ(とLBは語る)。最初にテーマがあって、そのテーマに沿って変奏を加えていく。さらに発展させていくとsequence/反復進行と言うものがくる。あるフレーズをピッチを変えていったり、他の楽器で演奏したり(imitation/模倣)、追いかけあったり(fugue/フーガ)する。あるいはあるフレーズを分解して(break down)積み重ねていったりもする。例えば、「若者たちに語りかける。語りかける。かける。かける。けるけるける。るるるるる。」なんてふうに。そうやって盛り上げていくことになる。

作者がここでやっているのは、これらのなかで一番最初に出てくる「反復」で、文章自身は何も変わっちゃいない。だけどbreak downと似たような匂いがある。例えば、次のように書いたらどうだろう。



  きみがぼくを迎え入れて、
ただきみがぼくを迎え入れて、
ただきみがぼくを迎え入れて、
ただきみがぼくを迎え入れて、
その



普通の反復である。例の「カナダは熱帯だ」少年にすぎない。ここにおいて、リズムは真っ直ぐに、一拍子となるだろう。これのかわりに、作者は次のようにする。



きみがぼくを迎え入れて、ただ
きみがぼくを
迎え入れて、ただきみが
ぼくを迎え入れて、
ただきみがぼくを迎え入れて、その

夜の
むこうでは



単調だったリズムはある特徴あるリズムに変わる。 そのリズムの中で 
「きみ」は「ぼく」を「迎え入れて」、いる。
ドキドキしますね。
なによりその、のあとの改行

その空白にはハッとします。




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生得/独特


真夜中に冷蔵庫を運ぶhttp://po-m.com/forum/showdoc.php?did=32748 より数首


泣き明かし忘れ疲れた姉は今眠っています液体みたいに

深夜には石榴かじってこれまでにきみがしたことのために踊れ!

無花果の実る森からやってきた鋏もつ子がわたしですから

知恵の輪を解いて妹微笑んだ あしたははれる あしたははれる


独特というよりも生得と呼びたい何か備わった体温のようなものを持つ言葉を放つ人たちがいる。まるでピアノの一つのキーをおさえただけで、その鍵盤楽器のメカニックな一見の単純さにもかかわらずその人がおさえたと分かってしまうピアニストがいるように。ここに並んでいるのが31文字に過ぎないとしても、もっといえばひらがなにすぎないとしても、それが一つの生得のものに。ひらがな、ひらかな、平らかな、でもかならず少しのまるみを持って はてなの線をなぞるように。声が聞える。ここには声があり、ここにはかつて読まれなかったはずの声がはっきりと聞こえてくる のではないだろうか、あしたははれる あしたははれるの声が聞えない人がいるだろうか。真夜中に冷蔵庫を運ぶ、という運ぶという音だけに、その声を音を聞き取ることができないだろうか。運んでいる。引越しとは限らず、いや、むしろ、たぶん、「運ぶために」 運んでいる おそらく、階段を がたんごとんと 白い箱を運ぶこと それはきっと つるん としていて



X階段降りて行くぼくらのhttp://po-m.com/forum/showdoc.php?did=33694 より一首



精液のようにつたわるきみの声鼓膜のようにわたしふるえる


蛙の卵のことを習ったとき、実際に見たことはないのだけれど、たしかゼラチン状のふるえるものだったときいたことがあるような気がする。ここでは精子で、精子は泳いでいくのだけれど、それ自身が精液のなかで震えている。震えは響きとなり、受容体としての鼓膜、受容体としてのわたしじしんはふるえて受胎する。




カニバリズムは無血で遂行されてhttp://po-m.com/forum/showdoc.php?did=37126 より数首



おっぱいのかたちにこだわるきみだけどたけのことかは無関心よね

「茄子の表面の上ではわれわれのすべてがすべる」と教授は言った



どこまでも一貫したその口ぶり、ひらがな、声。女の子自身が放つおっぱいのかたちという言葉に、僕らはいっせいに引き揚げられてしまう。おっぱいに対抗してだされるのは「たけのことか」である。柔らかいおっぱいにたいする、「たけのことか」の固いイメージ。でもフロイト的な遊びはおしまい。

茄子については、教授のことばがひらがなであるのがたまらないが、あるいは生徒にあわせて教授は話しているのかもしれず、どうしてもこの歌にはひらがな的な生徒の反映がみえる。教授の目に映るひらがな的な生徒(たち)もふくめ、この授業風景全体がなんとも言えずかわいい。くりかえす、ひらがな、ひらがな。われわれ(ゝゝゝゝ)のすべ(ゝゝ)てがすべ(ゝゝ)る。

いつもおもうのが、「わたし」の立ち位置が僕には見えないということだ。「わたし」は空にいるのだろうか。地にいるのだろうか。「わたし」はいないのだろうか。「わたし」は鏡なのだろうか。「わたし」はいつも主張しないし、固執しないし、ひらがなで微笑んでいて、おっぱいのかたちよりたけのことかに関心がある。茄子の上で冷蔵庫をよいしょと運んだりしている。「わたし」は作られている(ゝゝゝゝゝゝ)!。だれに?「わたし」によって?そこにおいて「わたし」はほとんど宇宙であり、もっというと時空なのである。無意識に気取らずに。あしたははれる、といいながら。その「わたし」のあり方に僕ははげしく嫉妬してしまう。


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初期作品の声の聞えない静止的碑文的回転的呪文であったものが、いまやだんだん声が聞えるようになったのと同時にまるでよちよち歩きのようでありながらも移動を始めているように思われる。セリフにすると よいしょよいしょ という感じである。経路は時間的空間的に遠くから冷たく見つめられていたものが、だんだん対象に付き添って観察者の視線が温かくなってきているような、あるいは対象と観察者の間になにかしらの相互作用(それが例えば万有引力のような非接触的なものであるかもしれないが)が生まれ始めているような気がする。対象はまだ子供子供しているが観察者もそれに寄り添っていてそれがかわいらしい。

move http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=43428 より


きみはすいかを近くと遠くでころがして、
動物みたいに
移動して
いた。まだ生まれていない、生まれる手前の





時間がうまくいかずに、ここで
いま
きみはすいかを
ころがして、
移動する




しつこいけれどもスイカではなく西瓜でもなくすいかであり、転がすのではなくころがすのであり、そして対象は静止ではなく移動するのである。この移動は真夜中に冷蔵庫を運ぶのと同じ類の移動 すなわち一人でのよちよち歩きなのだが、それに寄り添うひらがな表示がとてもあたたかい。


散文(批評随筆小説等) 繰り返すものたち/生得(こもん氏の作品について2) Copyright 渡邉建志 2005-09-20 05:47:02
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