こもんさんの詩について思うこと
渡邉建志

黒魔術だと思う。なにか黒く光る言葉たち。
ギミックみたいな改行。
碑文、と作者は言う。それは(朗)読んではならない(おそらく)。
目で見る、使われる漢字の与える印象の強さ。詩の形の強さ。
あるいは、読まれない呪文。



なぜか強く印象に残る単語を拾い上げてみる。何かの特徴が見出せないだろうか。

毀ちた、ユリー、円環、旋回、こめられる、ある、陰茎、手、夜、もの、堰きとめられ、束ねられ、めいた、耳、おしるし、数匹、群れ、白けた、さしだす、推し計る、数える、教える、閾、昏い

(時が凍っているような、止まっているような、そんな印象を受ける、言葉たち。そんなふうに、わたしにはおもえる。)



http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=16873
「与えられて毀ちた」

毀ちたという古語の、やや異様な字の「かたち」。
ユリカモメという言葉を、
ユリーとカモメに分割し、
ユリーの後で改行することによる
ユリーの呪文化。名前であるのか。名前の呼びかけであるのか。

円環という言葉が呪文的である。
旋回という言葉もまた呪文的である。




http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=19575
「あなたのあなたならざる部分が」

こめられる、という言葉に注目する。こめられると発音する。
こめられる、こめられる、こめられる。
お・え・あ・え・う、が母音で、あをえでサンドイッチする、その回転。

また、動詞での改行。
「こめられる」の後の改行。
なによりも、「ある」の後の改行。
(Aという状態で)ある、という言葉への作者の偏愛を感じる。
ある、は存在を表す動詞「在る」であると同時に、そういう状態「である」、
というに過ぎない補助動詞でもありえる。
「て+ある」という場合、たいてい使われるのは後者であろうと思われるが、
作者はあえて前者を用いる。

 乱されることなく
 ある

「なく/ある」のつながり方。その異常性。
(「乱されることがない」ではない。重心は「ある」にある。
しかし耳にとって、あるいは目にとって、「なくある」というつながりは異様なものだ)

送るの反復(1行をおいて)。「送る」もまた動詞として空間に浮く。
その動詞の浮きかた。

(注.ここでは「て+ある」の形ではなく、「なくある」という形だが、これは「て+ある」の否定の変形という風に捉えることも可能であろう、つまり、「乱されないである」の変形として)



http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=19881
「steps」

動詞の詩ではないかと思う。作者の詩は動詞の詩という思いがする。

呼ばれる、複数になる、遠吠える、と、終止形を重ねていく感じ。
地図になるの反復は1行をおく。おびただしくの反復がそれにはさまれておかれる。
さらにステップが反復される。になる、が全部で五回反復される。
群れの(改行)地図の のの反復。

 ステップが舞踏/地図になる
 (略)
 ステップが地図になる
 地図のステップになる

さかさまになって繰り返される。複雑な反復の構造。
見つけて色を塗ってみたくもなる。
秘教的な感覚がある。



http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=23654

 手のうえを生まれてきたものが、堰きとめら
 れる、
 手の束ねられた、ぼくらの夜の
 また別ものめいた夜めいた
 夜の、手の、陰茎のことばの、夜はここだ

 束ねられる
 動物たちの、移動する夜だ、いまは行動するの、でも、
 故郷から
 追い出されてる、追放済みの、追い出されてる動物たちの
 その両手はすでに断たれて、
 截たれて、絶たれてある



「phallic」

秘教的な感覚はこの詩に最も感じる。
題名の呪文性。phallusファルスという言葉にも、
不思議な響きがある。なにか危うげな。
われわれはおそらくこの題名の意味を調べないまま詩を読む。
読みながら突然現れる「陰茎」という言葉に衝撃を受けるだろう。
そして最後にphallicという呪文のような言葉の意味を探すだろう。

反復分析。
「手の」(3回、間歇的反復)。「ぼくらの夜の/また別もの」「の」、の反復。
「夜」(4回、間歇的反復)「めいた」。さらに、「の」の連続的反復。
とくに「夜」の反復が重い。でも、まったくしつこく感じることがない。

動詞のこと。
あまり使われない名詞というものがあり、いっぽうで
あまり使われない動詞というものがあるが、どちらが
一層呪文的かというとそれは後者のような気がする。
前者はともすればわざとらしくなるからかもしれない。
「堰きとめら/れる、」
「束ねられた」
「めいた」

束ねられているのはおそらく言葉なのであるが、
わたしにはそれが陰茎に思われて仕方がない。
束ねるという漢字の妖しさを思う。
東は安定している。束は安定しない。
碑文的な文字であると感じる。
それは、陰茎という文字についても。
男根ではだめなのです。漢字の感じが大切なのだと思う。
なにかが過剰(「陰」)だったり、なにかが足りていない(「茎」)感じ。
そしてそれは束ねられる。
のちには両手が「断たれて、/截たれて、絶たれて」いる動物が現れる。
タたれた両手は同時に陰茎であると思う(夜の、手の、陰茎のことばの、夜)。
そして手=陰茎はタたれた上で、一つの花束として。

再び反復について。
「束ねられる」の碑文性は二度生かされる。
「追い出されてる、追放済みの、追い出されてる」
反復される焦り。
短いうちに「追い出されてる」がサンドイッチ状に反復されている上に、
はさまれた「追放済みの」、もすでに同意語である。
その異常性は加速してついに動物たちは手=陰茎を断たれるのである。

動詞について。タたれるについては省略。ここで強調したいのは「ある」である。

 その両手はすでに断たれて、
 截たれて、絶たれてある

タたれて「いる」ではないのである。タたれて「ある」、という。
この補助動詞をわざわざ使うことに作者の特徴がある。
この「ある」は決して自然ではない。「いる」のほうがずっと自然だ。
自然な補助動詞「ある」は、たとえば「置いてある」とか、「書いてある」とかの
使われ方をするだろう。それは完了・継続・残存をあらわし、
そこには明らかに「そっちをみてみろよ」という示唆がある。
「ほら、そこにあるだろう?」という示唆がある。存在の示唆である。
しかし、作者がここで使っている「ある」は、さらに針が補助動詞から動詞に振れて、
動詞としての「在る」に近いと私は感じる。
仮に音読するならば、「ある」に(も)アクセントを置くだろう。

ここで注意したいのは、作者の使う「ある」の異常性は「ある」ものが実は「ない」ことなのである。
そこには、ちょっと残酷な感じがある。われわれはそこに、ない両手、ない陰茎を見、
ひょっとすると、その行き先としての「束ねられた」ものを見るのである。




http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=23655
「early」

なにをいっているのかよくわからないけれどここちよいこのここちよさはいったいなにかよくわからない。

動詞について。
数えあげる、という動詞の優しさ。
そのものになる「、」の読点(まだ続くのである)
動詞が動詞のまま普通に終わらないこと。どこまでも続いていくか、
あるいは虚空に投げ出されるか。そこに落ち着いた終止はない。

反復について。
すべての、そのすべての、の繰り返し。
かなた「に」、残る残り(反復)の『ため「に」』(「に」、の反復)
耳、の反復、
来る『ために』(『ために』、の反復)
聴ききる(き、の反復)

たくさんの反復と、そのそれぞれの持つ距離。その距離の違いについては注目しておく必要がある。
例えばそれを色づけて書いてもいいし、
同じ言葉を同じ高さにした3次元の詩にしてもいいし、
注意してみることだ。
あるときは次々と繰り返しが来て、忘れた頃にそれを挟んでまた来た、という感じ。
HTMLのタグのように。
ポリフォニックな感じ。



http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=24025
「mar」

群れ、遠吠える、は前も出てきた単語だ。何かの象徴として出てくるイメージだろうか。
お「し」る「し」という言葉のサンドイッチ構造。(旋回する感じ)
でもそれだけではなくて、しるしではなくて「お」しるしなのが重要です。たぶん。
(おしるこを想起させるからか?なんというか、白玉の入ったあまいやつ)

「口」一文字の改行のリズムがすごいいい。

 遠さは近くなって、近さは遠くなる、遠吠える内側

碑文の特徴に「わけのわからなさ」がある。何かを秘めたわけのわからなさ。
これなんかそうだ。近いのか遠いのかわからないし、「内側」なんてことばだって。

 白けて
 白けた

わざわざ2回白けていること。どもりに近いが、どもりではない。
そう、口に因る現象ではなく脳に因るのせいだ。
いったことをもういちど考え直す、認識しなおしている感じがする。


追記

第四無名者氏はhttp://po-m.com/forum/showdoc.php?did=31915において
「おしるし」のくりかえしが実は内容的にはくりかえしではなく、
その指し示すものが拡大或いは変化していることを指摘する。

●―――――――――――――――――――――●
|「おしるし」=数匹の中の「耳」「目」「口」|
|       ↓             |
|     呪文↓「わたしの内に外として」 |
|       ↓             |
|「おしるし」=群れの中の「数匹」     |
●―――――――――――――――――――――●


おしるしの指し示す内容が、例えば「地球の中の『日本』」から「宇宙の中の『地球』」に
拡大(或いは変化)しているのだ。ここでその変化をおこさせているのは「内に外として」ということばである。
私はここで「逆転ゆで卵」を思い出す。
白身と黄身の逆転したゆで卵である。おしるし=黄身の位置が「内」にあると
思っていたらば何と外に存在して、卵の中身という総体が卵の殻に囲まれているよ、
という主張にはやがわりするのである。
ここにおいて「わたしの内に外として」は「逆転ゆで卵」における針のようなものである。
それは内部を突き刺して外部へ揺れていく。

くりかえしなのに、ずれていく。この面白さこそがこもん氏の繰り返し詩の
味わいの一つになっているのではないか。
「反復される差異」と第四無名者氏は言う。
そしてそれ自体が「純粋性」を示すと言う。

反復されるたびに意味がずれていくので、もはや繰り返されるごとに
具体的な意味が曖昧になっていき、しまいには言葉は揺れながら意味を失って、
その発音や字面のうつくしさという純粋なものになっていく。


追記終わり






http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=24224
「観測」

繰り返しが一番夢のように美しい詩。

 両の手にさしだされている、きみは推し計られずに
 両の手にさしだされている、
 きみは推し計られずに

反復の強い形。二回言っているだけなのに、改行で崩しているだけなのに。
特殊な雰囲気をそれだけでかもし出す。
「両の手に」という古語調。さしだす、という動詞。推し計るという動詞。

 どこからぼくを見ていたのか、きみは
 時間について
 話すように、横顔で
 きみは、ぼくについて話すように
 いつか
 どの世界から
 きみはぼくを見ていたのか

きみとぼくの反復(3セット)。
「話すように」の反復。反復されてずれてつながって、急に現れる「いつか」
「ぼくを見ていたのか」と言う。サンドイッチの形で。
最初は読点がつづき(「ぼくを見ていたのか、」)
最後は放り出される形で。
それはまるで、夢のようだ。
同じシーンが出てくる夢か、
あるいはなんども夢を思い出しているのか。



http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=26380
「耳を貸すようにして」

たくさん−すこしの対比、多く−少ないの対比は見て取れる。
それよりも、動詞を見ると、
「耳を貸すようにして」というフレーズが記憶に残る。
「耳を貸す」のではなく、「耳を貸すように」するのですが、
でも実際は耳を貸しているのでしょう。
それは例えば「ささやくようにして」、は、「ささやいている」ように。
わざわざ「ように」するところがいいなとおもいました。



http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=29972
「踏み散らかる」

改行のなせる不思議な技。
まずは不思議な痕跡の様子の描写。
しかしそこからがかっこいいと思う。
降りて行った、からの。
「行った」の反復。
さらに、どこに行ったのかが最後に明かされるその構図。
読みながら、ひきずられていく。



http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=31438
「ウミツバメが、旋回する」


 それらは数える
 教えるように、


文字の呪文について。教えると数えるは形の上でほとんど変わらないこと。


 数え入れるように、多くのもの─(そこには
 数え得ないものも
 含まれるだろう、たぶん)─を。

─( )─ の魅力。そのかたちとしての。ただ、金属的な黒光りは
ここに至ってすこし消えて、そのかわりすこし口語的になっている。
(「だろう、たぶん」)



http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=32497
「door」

しかし再び冷たい碑文暗号の世界へ戻る。ドアに書かれた謎だろうと考える。
はてしない物語のブックス少年が解くような。

 目の閾には耳がある、
 耳の閾には目がある、

閾という漢字の感触。閾値という言葉を習った時の、
不思議な感触を思い出す。ありえない形の漢字。

「扉」という言葉が何度も繰り返され、なぞなぞが与えられる。
ドアが語る。言葉は鏡の中の世界を跳ね返りながら、
「きみにむかう」(二度)



http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=33392
「ふたつの手は、昏い」

昏迷という言葉に使われる昏という漢字も、またあまり単体で見る漢字ではない。
そして現れる「手」。作者の中で手と夜は同時に現れるイメージのようだ。
そして「非対称」という術語。
「わたしたちの持ち物」の反復(一度ずつ言い直しているような雰囲気である)
それから、存在の動詞「ある」が、改行してこれだけ置かれること。
その金属的なはなたれかた。




かんたんまとめ

反復はどもりではなく、考え、言いなおし、近似していく感触がある。
ある一定の印象を与える作者特有の単語(手、夜など)がある。動詞(ある、など)がある。
改行はある単語・文字を冷たく放ち、音読ではなく黙読されるリズムを作っている。
碑文は遠い冷たい謎をふくむ。繰り返しについて、さっきは近似と言ったが、ひょっとすると謎をかけているのかも知れぬ。
その謎な雰囲気は選ばれる文字の形にも大きく拠っている。


散文(批評随筆小説等) こもんさんの詩について思うこと Copyright 渡邉建志 2005-03-18 05:23:14
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