札幌は 優しい
クリ

 2005年1月に札幌に帰省して感じたこと、「人間が優しい」

そっちの人には当然で、なんでそんなこと書くのか、と感じられるかも知れませんが、こっちの人間からすれば小さなショックでした。
僕が自分のことを「こっちの人間」と自覚していることも悲しい気もしますが…。
とにかく、町で出会う人が表面的であるとしても優しいです。例えば…。
千歳から市内に向かう路線バスの運転手さん。出発前にしきりに無線を使っていた。で、発車時にアナウンス、
「トラックの人たちとかにも聞いてみましたが、市内けっこー混んでるみたいで、特に真駒内から向こう、のろのろしか動いてないみたいです。
 なんで、少し遅れると思いますのでご了承ください」
東京なら「遅れるかもしれない」なんて言う運転手さんはまずいない。それもこの運転手さん、自社情報だけではなく、ドライバーからも情報収集している。
そして、途中の赤信号で席を立って後ろまで歩いてきて、「お客さん、寒くないかぃ? なんか暖房効かないんだわ」
と、みんなに。みんなは口々に「寒くないよ」と。「そっかい、寒かったら言ってね」
こんな光景は何年も見たことがない。ほかにもいくつか「なんて優しい人たちなんだ」と思わずにはいられないイベントがいくつもあったが、やはりもひとつだけバスの話。
帰り、やはり千歳までバスで行こうとしたら運転手さんとの会話になる。

「千歳までかい?」
「はい」
「この雪で途中の排雪(「除雪」じゃありません)追いついてなくて、全然進めないんだわ」
「2時半の便なんですけど…」
「…間に合わないわ」
「…」
「真駒内まで乗せてってあげるから、電車で行った方がいいよ」
「そうします」
「うん、そうしな」
「いくらでしたっけ?」
「一区間だけだから、いいわ」

と、こんな感じ これもあり得ない。

僕はあとあと思った。ひょっとして日本はおおかた優しいのではないか。優しくないのは東京だけではないのか。
大阪に行くと感じる、みんなが頻繁に「ありがとぉ」と言う。耳につく。東京では少ない言葉だ。
アメリカの田舎では、ちょっとうろうろ迷っていると誰かが必ず声を掛けてくれる。
オーストラリアの郊外のレストランで深夜まで飲み食いした。外に出たら車の一台も走ってない。途方に暮れた。
すると早番の店員の女性が仕事を終えてやはり外に出てきた。「どのホテルに泊まってるの?」
彼女は僕ら三人を車で送ってくれた。お金でお礼をしようとすると、「いらない。それより日本からメールをちょうだい」とアドレスを。
こんなことは、下町ならいざ知らず、東京では滅多にお目にかかれない。
ビジネスで地方や外国に行っても、なかなかその土地の人情を感ずることは少ないと思う。しかし、「街」ではなく「町」に行くと感じる。
人一人ひとりは、本当は優しい。
僕も本当は優しかった。
今も本当は優しくありたい。
今は何かの目的のために、優しく振る舞っているだけだ。東京は大半の住人が「旅の恥はかきすて」状態、「旅先でゴミを捨てていく」感覚になっている。
「とりあえず住んでいる」からだ。いずれここではないどこかへ行くのだから東京がどうなろうとあまり関心がない、のだ。僕もそう。

本当はただただ芯から、心から優しくいたい。
それには札幌に帰るのがいちばん手っ取り早いことは分かっている。あるいは国内でも国外でもいい、田舎に住む。
思い起こせばこのことはもうとっくに詩に書いてた。「さよならトキヨ さよならヤーパン」
「こっちの人間」になってしまったと思いつつ、「こっち」に染まりきれない自分がいる。
染まることのできないのは、焦燥であり、一片のプライドでもある、ような気がする。
まるで反復行動をしている動物園のライオンのようだ。


                    Kuri, Kipple : 2005.02.18 / 初出 Domin Diary


散文(批評随筆小説等) 札幌は 優しい Copyright クリ 2005-09-13 03:35:10
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