雑感&書評『テクスチュアル・ハラスメント』
佐々宝砂

以下の文章は2001年春に書いたものに訂正加筆したものです。

 ふっと思いついて、『新潮世界文学辞典』で「フェミニズム批評」を引いてみた。1990年版だからわるいのかもしれないが、そういう項目はなかった。こんなもんかなあと思いながら、ナタリー・バーネイの名を引いてみる。やっぱりなし。この野郎ってんでメアリ・ウルストンクラフトを引いてみる。これはあった。ただし記述はとてもみじかい。ついでに娘のメアリ・シェリーも引いてみる。みじかい記述だが、一応あった。ガブリエラ・ミストラルを引いてみる。これは結構記述が長い。なんかうれしいので続いてシルヴィア・プラスを引く。これも長い記述があるぞ嬉しいぞ、それじゃあシットウェルはどうなんだ、あるにはあるが、これはあまり記述が長くない。それじゃシェ・ピンシンはどうだ? まあなくても仕方ないのか、このひとは。

 ヒルガエッテわが日本ではどうなんだろう、日本文学辞典を持ってなくて、かわりに『日本幻想作家名鑑』を使っている私には調べようがない。しょうがないから資料なしで、女性詩人に関する自分の知識を総動員してみる。私が知っている本邦の女性詩人って、どれだけいるんだろう。大学教育を受けていないから、私の知識は通常の高校までの教育とイナカの図書館と本屋で培われたものに過ぎない、私が知っていることなんて、あなたにもすぐ調べがつく。まだ文学辞典には載らない、いま活躍中の女性詩人がもっともっとたくさんいることを私は知っているけれども、そういう現役バリバリ今が旬とゆーヒトじゃなくって、教科書に載るような、図書館でふと出会えるような、もしかしたら生涯お手本として尊敬できるかもしれない、そんな詩人について、私は考えたいのである。

 思いつくままに並べ立ててみる。新川和江、富岡多恵子、左川ちか、茨木のり子、石垣りん、吉行理恵、高田敏子、石川逸子、白石かずこ、あと誰だあ、そうだ吉原幸子に金井美恵子。あとあまり読んだことないけど高良留美子と山本道子と多田智満子。うーん。詰まった。いやそう言えば金子みすゞという人もいたな、しかしそれでおしまいだ。もうこれ以上出てこない。さて、いまずらずらと並べ立てたこの詩人たちの名前を見て、そこに問題があることに気づいたひとはいるだろうか? 私は、私の知識に大きな穴があることを知っている。それが何かわかるだろうか?

 比較検討してもらうために、男性詩人の名も思いつくままに挙げてみよう。ま、好きな順になるけどね。大手拓次、寺山修司、谷川俊太郎、萩原朔太郎、草野心平、清岡卓行、村山槐多、北園克衛、吉田一穂、辻まこと、松下育男、稲垣足穂(詩人?)、黒田三郎に高橋睦郎に鈴木志郎康に高見順に大岡信に安西均、ああ切りがない、ここらでやめておきませう。男性詩人の方が名前が多く出る。それはま、仕方ないとする。比較検討してもらいたいのは、単純な数の問題ではない。

 何言いたいかというとだね、つまり、私は、萩原朔太郎や大手拓次と同時代に生きた女性詩人を、金子みすゞと左川ちかの他に知らぬのである。まして、明治の女性詩人なんて、与謝野晶子のほかには一人も知らない(女性俳人女性歌人ならもっと数を挙げることができるけど、いま私が言ってるのは詩、特に新体詩の話)。しかし明治の男性詩人なら幾人も知っている。んーと、森鴎外、三木露風、蒲原有明、北村透谷、国木田独歩も詩人でいいかな、それから土井晩翠、島崎藤村、与謝野鉄幹、野口米次郎、まあこのへんにしとこう、まだたぶん名前を挙げられるけど。とにかく私、オトコの詩人なら、こーんなにいっぱい知ってるのだ。彼らの詩が、必ずしも自分好みのものではないにも関わらず。

 明治時代も大正時代も、女性詩人がいなかったはずがない。「山動くとききたる」と与謝野晶子が書いているではないか、ほんのわずかかも知れないけれどそのころから山は確かに動いていたはずじゃないか。絶対に誰か書いてるはずだ。断言しよう、絶対に優れた作品が埋もれたままになっているはずだ。金子みすゞの詩が埋もれたままになっていたように。彼女たちの作品はどうなってしまったのだろう。どうして私は、彼女たちの作品をほとんど見たことがないのだろう。どうしたらそれが読めるのだろう。私はいま、猛烈にかなしくなっている。『テクスチュアル・ハラスメント』に示唆されるまで、これほど重要な事実に気づかなかった自分を恥じている。


と、長い前フリののち『テクスチュアル・ハラスメント』書評。
これも2001年に書いたものに加筆訂正。


『テクスチュアル・ハラスメント』
"Textual Harrasment"
ジョアナ・ラス(Joanna Russ)著  小谷真理 編・訳
ISBN【4-309-90420-3】
出版社:インスクリプト
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309904203/249-3954342-4840325/gendaishiforu-22/

 親愛なる読者のみなさんが私の性別を何だと思ってるか知らないが、私の身体的性別は女である。そういうわけで当然十ン年前の私はオンナノコだったわけなのだが、当時、私の偶像は三人いた。一人はジム・モリソン、も一人は栗本薫、そして三人目がこの『テクスチュアル・ハラスメント』の著者ジョアナ・ラスである。ジョアナ・ラスの著作は『フィーメール・マン』(サンリオSF文庫、絶版)一冊しか翻訳がなかったけれど、私はその一冊だけでジョアナ・ラスに惚れた。誤解を招かないように言っておくと、ジョアナ・ラスは女性である。オンナがオンナに惚れて何が悪い(その分オトコが余るという意見には耳貸さない)。

 ジョアナ・ラスとはどういう人か、あかでみっくなのが好きな人のために説明しておこう。ジョアナ・ラス、1937年、ニューヨークのブロンクス生まれ。コーネル大学で英語を専攻し、イェール・ドラマ・スクールで劇作を学ぶ。コピーライター、臨時雇いの宛名書き、精神科医の秘書などを経て、教職につく。81年にはワシントン大学で英語の助教授を務めている。作家としてのデビューは59年、'Nor CustomStale'をF&SF誌に発表。短編「変革のとき」で1973年度のネビュラ賞を受賞したが、この作品は賛否両論大激論を巻き起こした。彼女の代表的な長編『フィーメール・マン』は、この「変革のとき」をベースにしている。と書くといかにもあかでみっくなひとのよーな気がするが、このひと、スター・トレックの主な登場人物二人を主人公にしたやおい小説を書いていたりしてなかなかサブカルな面を持つ。2003年9月号SFマガジン「彼女たちのセクシュアリティー、女性作家特集」にちょっと古めの評論が掲載されており、その中にもスター・トレックやおいに関する言及があった。

 2001年に出版された『テクスチュアル・ハラスメント』というこの本は、ごくごく簡単に言ってしまうと、物を書く女性に対する批評を批評したものである。批評をフェミニズム批評したものとでもいうべきか。まず原題がものすごい。「女性の物書きを抑圧する方法」というんだから。女のモノカキが、かつて、どんな風に抑圧されてきたかのショーケース。

彼女は書いたが、書くべきではなかった。(思想的に問題アリ)
彼女は書いたが、何を書いたか見てみろ。(ろくなこと書いてない)
彼女は書いたが、生涯にたった1作だけ。(『嵐が丘』だけじゃん?)
彼女は書いたが、本当の芸術家ではないし本当の芸術作品でもない。
彼女は書いたが、手伝ってもらった。
彼女は書いたが、彼女だけは例外だ。(彼女は女じゃない)
彼女は書いたが……いや、彼女は本当は書かなかったのだ。


 この本、読んでたら泣けてきた。だって私は女のモノカキだからな、ひどい抑圧はまだ経験していないけれども、思い当たることはいくつもある。しかし、真に問題にされるべき抑圧は、上に列挙したようなことばかりじゃない、いちばんひどい問題はね、女性のモノカキが、お手本にするべき女性作家になかなか巡り会えない、女性作家の系譜を知り得ない、ということなのだ。

 女性にとって必要な文学は、必ずしも図書館や書店の棚に揃っていない。たとえば、『ジェーン・エア』以外のシャーロット・ブロンテの作品を、いったい誰が知っているだろう? 私はもちろん『ジェーン・エア』を読んだ。私は、文学史の本を読んで、シャーロットの『シャーリー』『ヴィレット』などの作品タイトルを知った。あくまでタイトルだけ。エミリ・ブロンテが詩を書いていたことも知った。だがエミリの詩を私は2編しか読んでいない(*1)。それ以上はなかった。どこを探してもなかった。アメリカでも似たような状況なのだということを、私はこの『テクスチュアル・ハラスメント』を読んで知った。たくさんの女性作家と女性詩人がいたはずなのに、彼女たちの作品はどこに消えたのだろう。それこそが、15歳の乙女のさざ波たつ湖水のごとき心には、明治の軍医の洋行記(*2)などより遙かに必要であったものを(*3)。

 私はいくども書棚やカタログを探しては落胆した。たとえば野溝七生子。あるいは尾崎翠。詩人だと、左川ちか。野溝七生子や尾崎翠は再評価されたので入手が容易になったけれども、左川ちかはまだ全然出てこない。左川ちかの詩集なら切ないくらいにほしい。ああそれから、もちろんディキンソンもシットウェルもレインもミストラルもロセッティもジョージ・エリオットも!

 だから私は泣けてきた。これほどに歴史を抹殺され、系譜を隠され、「男たちが作った機構の中で一人二人とバラバラと生きている」オポッサムでしかない女たちは(*4)、それでも、わずかな酸素を求めて必死に息をするように、かすかな手がかりを元に先輩女性作家や女性詩人の姿を探り当ててきたのだ。私自身も、そうしてきたひとりだ。これが泣けずになんとする。

 この『テクスチュアル・ハラスメント』という本、オトコは読まなくていい。読んでもいいけど、読まなくていい。でも女性は読んでほしい、特に女子大生に読んでもらいたい。読んで、オトコの文脈でない、女の文脈の存在を知れ。それは必ずしも台所のものではない、必ずしも星と菫の甘い砂糖菓子じゃない、必ずしも大地のような力強い慈愛に満ちたものじゃない、生理的感覚にあふれた艶めかしい女性原理に基づくものでさえない、それらはすべて幻想に過ぎない。

 少女よ、地母でも処女でも娼婦でもない女性の目からみた女性の文学を知れ。そして少女よ、本とペンを持って戦え。そうだよ、今、すぐにでも。


*1 今は4編知っている、だからと言って全く自慢にはならない。むしろ恥ずかしい。

*2 もちろん森鴎外のこと。特に「舞姫」。なんであんなん教科書に載せるんや。

*3 この文章、吉屋信子のマネ。

*4 カギカッコ内引用は「男たちの知らない女」ジェイムズ・ティプトリー・Jr作より。
  『愛はさだめ、さだめは死』に収録。早川書房刊。



散文(批評随筆小説等) 雑感&書評『テクスチュアル・ハラスメント』 Copyright 佐々宝砂 2003-12-29 14:32:36縦
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