私のダブルスタンダード
佐々宝砂

「カテゴリについて」における「文句こくな耐えろ」という私の言葉が暴言と言える理由は、それがただひとつの基準で対象すべてをぶったぎっているからである。あんな暴言がいいもの正しいものであると、私はおもっちゃいない。ほんとのことを言えば、私は、「文句こくな耐えろ」という言葉を他人にぶつける権利を持たない。あの暴言は、私が私に向けたものであるべきで、私以外の人は、文句言いたければ言えばいいし、耐えられなければ耐えなくていい。でも私は耐えようと思っている。文句も言うまいと思っている(著作権法上問題があったら話は別だ)。これは決意表明だけれど、あなたまでがこの決意にくっついてくる必要性は皆無だ。

こういうのをダブルスタンダードというのだ、と私は思う。でも間違ってるかもしれない。自信がないので辞書を引く。辞書の意見はそれこそ「スタンダード」だろう。ごく素直に大辞林で調べれば、「ダブルスタンダード」とは、対象によって基準を変えること、二重基準のことだと書いてある。実際問題としては二重どころではないだろうな、対象の数だけスタンダードはあり、そのように無数のスタンダードがひしめきあっている状態がこの現代という時代なのだろう。

しかし……と私は考える。そもそも、「スタンダード」という概念そのものが危険で、それが論争のもとになっているのと違うかね? 複数のスタンダード、アンビバレンツ、二律だか四律だか十六律だかもういくつでもいいや律背反、どれほど数多くの基準が存在を許されるとしても、それはやはり基準であって、基準とは、基準外のものを常に排除しようとするのではないか? しかし私のこの考えはかなり未熟だ。時間があるときE.W.サイードの本を再読して考え直してみようと思う。サイードの書物にはヒントがあるような気がする。


好みの問題であるということにしておきたいが、私は「オマエモナー」が好きでない。「オマエモナー」は、相手の、自分に理解できる面のみを見て述べる言葉であって、自分に理解できない異質な面からは目を背けた言葉のように思える。私は異質な面にも目を向けたい。私はあなたと違う。あなたはあのひとと違う。あのひとと私はまた違う。もちろんお互いに似た面も同じような面もあるはずだが、それはそれとして、みんな違うからおもしろいのだし、違うからぶつかりあう。違うから憎み合うし、違うから愛し合う。「あんた私とぜんぜん違うねー」と言いながら話し合い、話し合いながら変化してゆく。そういうのが私は好きだ。

たとえばムスリム。ムスリムのひとたちも私と同じように食事をするだろうし、セックスするだろうし、トイレに行けばウ○コをするだろう。人間なんだからそれは当たり前だ。だけと食事の内容や、セックスのありかたや、トイレの作法はきっと私とずいぶん違うはずだ。思想や宗教観はさらに違うだろう。私はその違う点にこそ着目して、その違う点をこそ認めたい。そこに世界の面白さは存在していると思う。

だとしたら、私は「オマエモナー」という言葉をすら認めなくてはならない、のだろう。それが私といかに異質であっても、だ。「私はあなたに内包されたくない」「私はあなたに似ていない」と考えているとしても、だ。これまたダブルスタンダードか、はたまた「あんたの言うことなんか間違ってるサ」と息巻いているだけか。どっちなのか私にはわからない。いずれにせよ、現在のところ、私は「オマエモナー」を一時隔離して、私の自我を守らなくてはならない。私の自我はその程度には弱いのである。


と、ここらで終わればふつーなんでしょうが、ここでさらにまにあっくな話を持ち出すところが私のオタクたる所以で。

私は昔から神戸という街が好きだ。西洋と東洋の文化がごちゃまぜになって、いろんな異質なものがなにげなく隣り合っている街が好きだ。横浜にもそういう匂いがあって、あの街も嫌いではないのだが、横浜はちょっとアメリカの匂いがきつい。私は神戸のほうが好きだ。神戸の神戸らしさを代表する作家は稲垣足穂だろうか。タルホの世界では、異質なものが異質なままに隣り合い、響きあい、人間ならざるもの、たとえば土星が酒場でくだを巻いたりする。

ああした世界をマンガに継承したと私が考えているのが、星野架名という神戸出身のマンガ家である。このひと、gooで検索してもファンサイトが5つない。有名でないのは確かだし、80年代80年代した少女マンガ家なので、読めないひとには読めないだろうから、読めとは言わない。言わないが、私はこのひとのマンガが大好きなのだ。このひと、SFともファンタジーともいいがたいものを描いたマンガ家で、おそらく全くボルヘスを知らないままに「バベルの図書館」的な短編を描いていたり、地球そのものを消してしまったり、なかなか変……というかなかなか侮りがたいマンガ家なんである。

星野架名の作品の特異性は、「異質なものが知らぬうちに隣り合っている」ことをよしとするその宇宙観にある。そこいらへんが非常に神戸的だと思うのだ。たとえば彼女の代表作「緑野原(リョクノハラ)学園」シリーズ。主人公のクラスメートがなにげなくロシア人と日本人とのハーフ(名前は霧子・オルローワ)だったりして、でもクラスメートの誰一人として彼女を差別したりはしない。差別はしないが違いは意識していて、「霧子ならロシア語もできるが英語もできる!」などと言ったりする。主人公の姉の結婚相手がまた日本人ではなくて(確かアメリカ人)、でも登場人物の誰一人として「国際結婚だ!」と騒いだりはしない。実になにげなく無理なくグローバルなのだ(こういう雰囲気を継承した現在のマンガとして、『紅茶王子』があげられるかな)。

そしてこのグローバルな感覚は、地球規模・三次元規模どころではなく、もっとメタな規模でマンガにあらわれてくる。星野架名のマンガの中では、別次元のイキモノも、宇宙人も、自我の中の別人格も、異質だが隣にいる存在として認められている。もちろん時に争いはあるし、異質ゆえの誤解もすれ違いもある、それでも、異質な者同士は、異質なままに隣り合い、隣り合い響き合うことによって、ともに変質してゆく。基本的に、星野架名は、そうした変質を是とする作家だ。


私も、そのような変質を是としたい。私に、できるだろうか。


散文(批評随筆小説等) 私のダブルスタンダード Copyright 佐々宝砂 2003-12-25 05:30:14
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