ムーンライトながらノート
渡邉建志

ムーンライトながら号(注)の臨時電車に乗っていた。トイレの中で。持ってきた簡易椅子をトイレの横に組み立て、それに座った私は一人唸った。(まずい展開。)

ネットで検索している時点で、嫌な予感がしていたのだ。自由席があったはずのこの臨時電車が、最近、全席指定になってしまったのだと書いてあった。3年ほど前、自由席があった時代、この臨時電車に乗ったことを覚えている。「ムーンライトながら」(全席指定)の席が取れなかった人が、こちらの臨時電車(自由席あり)に乗ろうとして、通路まで人であふれていた。すごい活気だった。友人Kなどは、その通路部分で立っている女性と知り合ってのちに結婚したぐらいである。そんな出会いの場を提供してきた金のない若者のためのバイブル的電車が簡単になくなるわけないだろう、全席指定とは言っても席が指定席なだけできっと通路には立つのは自由だろう、など自分に都合よく考えた。すでに今日のムーンライトながらと臨時電車の指定席は満席だということは、大塚駅で聞いていた。

11時50分、東京駅。「指定席券を持っていない方の乗車はできません」のアナウンスをあっさり無視したらしい。意図的に、かつ、無意識的に。聞こえたような気がしたのだけれど、「気がした」程度なので、聞こえなかったことにした。電車に乗り込み、車両間の通路を見るのだが、だれもそこには立っていない。これも気がつかなかったことにした。立つのは自由だけれど、たぶん最近の流行はムーンライトながら臨時の通路で立つことからは遠くなっただけなのだろう、などと自分に都合よく考えた。この通路にいないだけで、車両が違えばだれかいるかもしれないではないか。流行おくれの誰かさんが。しかしそれを確かめにまわる勇気はない。とりあえずトイレに入った。隠れたのではない。尿意を催した「気がした」のである。11時55分。電車が動き出す。電車が駅を出てからすぐの時間帯は、車掌氏が車両を回り切符を確認する時間帯だ。トイレから出るのは危ない。しばらくトイレにいることにした。いつまでトイレにいようか、と思った。あんまりずっとトイレにい続けると、その横を何回も通る車掌氏は怪しんで、ノックしたりするだろう。ひょっとするとこじ開けるかもしれない。まさかそんなことはしないだろうとも思うが、しかしそれぐらいしないと、トイレ無賃乗車が世にはびこることになるだろう。あるいは、トイレの中にずっと隠れ続けるなんてダサいことは流行らないから大丈夫なのか。

僕自身、トイレ無賃乗車をしたことがある。1年前、アレッツォからヴィチェンツァへ向かう電車だった。たしか、わざとではなく、『気がつかなかった』の類だったと思う。乗車券は持っていたのだが、特急券がなかったのだ。そしてその電車が特急だと「知らなかった」という設定である。そして、それが特急だと「気付いて」、いそいでトイレに駆け込んだのだった。バックパックを背負い。トイレの中にずっと居続けるのは、かなりのスリルだった。まず言葉が通じないから、ばれたら一大事だ。たぶん10倍ぐらい取られる。そもそも金がないから無賃乗車するわけで、そこを罰金取られるのはかなり痛い。そんなことを考えながら1時間ほどトイレでドキドキし続けるのは、精神衛生に非常に悪い。史上最悪の犯罪者になったような気分だ。「良心の呵責」に苦しんで、とりあえず1分ほどトイレから出て、「トイレに隠れ続けているわけではなく、偶然便意が続くからトイレに入るのだよ(!)」ということを誰にともなくアピールする。もちろん誰に対してでもない。見られていたら困るのだから。ずっと通路に居続けるのは危険だから、しばらくしてまたトイレに入る。それから、トイレに座って本など開くのだけれども、ぜんぜん頭に入ってこない。そうこうして苦しんでいるうちに、電車はV駅に着きそうな時間になった。もしV駅についた瞬間にバックパックを背負ってトイレから出てきたら、無賃電車丸出しである。それは避けたい。それとなくV駅に着く数分前にトイレから出ておかねばならない。しかしバックパックを持ってトイレから出る瞬間を、客にも見られてはならない。それは怪しすぎる。一方、あんまり早く出過ぎると、頻繁に通路を行きかっている(かもしれない)車掌に見つかる恐れがある。車掌は、僕を席で見た記憶がないのだから、突然現われた僕を怪しむに違いない。そういうわけで、このトイレから出るタイミングはまさに「賭け」であり、非常にドキドキするのである。銃弾行き交う戦場に身を投げ出すような覚悟である。手元の時刻表を読むが、イタリアの電車と言うのははげしく時間にルーズなので(そのために飛行機を乗り過ごしそうになったことがある)(それもいちいち理由は言うのだが、その理由が納得できない)、時刻表も信頼できない。覚悟を決めて、時刻表の2分前に出たら、ちょうど客もおらず、車掌もいなかった。しばらくドアの前にいると、V駅で降りる客が現われ始めた。電車はV駅に着き、僕は急いで電車を駆け下り、ホームを走り抜けた。まだ、ドキドキしていた。正面のホールまで走って行くと、そこには久しぶりに会う留学中の恋人が待っているというスーパーマリオ的展開であった。

話を現在に戻そう。トイレでいつもどおり良心の呵責に苦しみつつ、「だけどちゃんと18切符持ってるし。指定席座らなくても立つし。それって誰の迷惑でもないし」などと自己正当化しつつ、イライラして、ポケットからiriverなるMP3プレーヤーを取り出し、ジョアン・ジルベルトを大音量で流しながら尾崎喜八を読むが、ジョアンのベルベットボイスも喜八の蓼科ラブも僕を癒しはしない。がたんがたんがたんと電車は揺れる。すると、こんこんとノックの音がする。キターと思う。車掌か。そうかやっぱり怪しいか。トイレっぷりをアピールしようとズボンを脱ぎつつ、こんこんとドアをたたきなおす。しばらくしてもう一度、こんこんとノックの音がする。しつこい車掌だ。出てくるまで続けるのだろうか、それともこじ開けるのだろうか、こっちがズボンを脱いでいようとパンツを脱いでいようとかまわずあけるのだろうか、と戦闘的に考える。考えていると、ドアの向こうで遠くに歩み去っていく音がする。どうやら客だったらしい。すると、良心の呵責がまたはじまる。僕はJRのみならずJRの客にも迷惑をかけているらしい。むしろ客のほうにより迷惑をかけている。これはよくない。

僕はトイレから出る。おりしも電車は横浜に着いて、また発車したところである。横浜で乗った客が電車の中を歩いている後ろについて、電車の中を歩く。車両間の通路部分には、相変わらず誰もいない。どうやらやはり、通路に乗車することは禁じられているようだ、と悟る。本格的に。さあ参った。とりあえず近くのトイレに入って考える。どうしよう。このまま乗り続けて大垣まで行くと、もし仮にばれたときに無賃電車と疑われ、3倍の値段を取られかねない。しかし僕には無賃の意図はなくて、18切符の一日分を切られるつもりで乗っているのである。李下の冠瓜田の靴というヤツであって、ここはトイレにずっと隠れ続けるのはまずい。ここは正々堂々と通路に出て、車掌を待ち構え、いかにも下痢っぽい顔をしているのがいちばんだと考えた。

車掌「どこから乗車ですか?」(怪しむ目)
僕 「品川です」
車掌「今までどこにいたの」(偉そうに)
僕 「ト、トイレです」
車掌「隠れてたんか」
僕 「い、いえ、下痢がきつくて」

というような会話のシミュレーションを一人で行いながら、車掌が来るのを待っていた。「霧の中の風景」みたいだなと思った。あの映画では少年たちはおし黙ったけれど、僕にそんな芸当はできないし、おし黙ったら余計怪しまれて3倍取られることになる。車掌はなかなか来なかった。iriverはシドンがスクリャービン3番を弾いていた。あまり良い演奏ではないと思った。何回かドアが開いて、そのたびに驚くのだけれど、車掌じゃなくて客だった。客は怪しい目で僕を見た。僕はこんな目で大垣まで見つめられ続けるのはたくさんだ、と思った。

ついに車掌氏があらわれた。白いヒゲのおじさんであった。

車掌氏「切符見せてください切符」
僕  「はい」(18切符)
車掌氏「指定席券は?」
僕  「いえ、持ってないんです。通路に立っているのはダメなんですか。」
車掌氏「全車(ぜーんしゃ)指定なんですよ、全車(ぜーんしゃ)。
    ここもダメ。」
僕  「降りなきゃダメですかねえ(この夜のなか)」
車掌氏「まあ待ちなさい。調べてあげるから」

車掌氏は手元の機械をまさぐるとどうやらキャンセルされた指定席があるらしく、切符を切ってくれた。車掌氏は、僕の中のバーチャルな世界で僕を痛めつけた―トイレをこじ開けたり、通路で詰問したり―のだが、実際現われた車掌氏はそんなにひどいことをせず、ただ800円請求しただけであった。そのイメージのギャップに私はやられてしまい、車掌氏がとてもやさしい人に見えた。捨てる神あれば拾う神ありだな、と思った。でも、こんなにドキドキするのは嫌だから、もう全車指定には乗らないようにしようと思った。JRをちょっと好きになった今回のムーンライトながら乗車であった。JR、バンザイ!JR、ジュニア!


2005.08.21.AM2:31 ムーンライトながら91号 2号車2A席にて



注:「ムーンライトながら」は東京―大垣間のJR深夜快速である。青春18切符で乗ることができる。


散文(批評随筆小説等) ムーンライトながらノート Copyright 渡邉建志 2005-08-21 09:05:12
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