河豚(ふぐ)は飛ぶ
日和

夜の漁から戻ってきたとき
さびれた銀のバケツの中に 一匹の河豚ふぐを入れました
おじいが売り物にならないと云ったから
じゃあ飼っても良いの と訊いて
まだ おじいの返事がないうちに
たっぷりの海水と一緒に 河豚ふぐをバケツに入れました
河豚ふぐは バケツの中で二回三回ぐるぐると遊泳して
そのつるつるした身を バケツのいちばん下に置きました
河豚ふぐは じっとしていました
河豚ふぐに 名前はありません でも 毒はあるらしいのです

幼い私には 水のバケツは持って帰れなかったから
河豚ふぐは おじいの静かな船の上に 置いてゆきました


なあ ふぐよ お前は
私に何を教えようとして じっとしていたのか

魚とて酸素がなければ死んでしまう
そんなことさえ知らなかった 私
知っていれば 知っていれば 
ストローで懸命に二酸化炭素を吹き込んだかも知れないのに


次の日の朝 おじいと船に乗り込んだ時
河豚ふぐは バケツの中には居ませんでした
河豚ふぐは バケツを飛び出して 船の隅っこに転がっていました
私が 震える手で河豚ふぐを抱え上げ
なんで死んでしまったのと おじいにそう訊くと
おじいは しばらくは黙って 黙って作業をしながら ようやっと
酸素が足りなくて 苦しくて 飛び跳ねたんやろう
そんな風に言いました
せめて 空を飛びたかったんやろうなあ そう言ってくれればよかったのに
だから 河豚ふぐは海が恋しかったのだろう 私はそう思うことにしました
傍では もう おじいが船にエンジンをかけていました
 

私は もう既に乾燥しかけていた河豚ふぐを海に還しました
「ごめんなさい」
河豚ふぐは恋しかった海になるのです
そして
その日も私は おじいと 魚を殺しに海へ出ました


自由詩 河豚(ふぐ)は飛ぶ Copyright 日和 2005-08-20 14:24:24
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