鏡を割りたくなるわけ
佐々宝砂

私イコール作者だと信じる純朴な読者は、読むな。



夫のいびきが隣の寝室から聞こえる
ここは私の部屋で ここにあるのは私の取り分
大きな書棚 たくさんの本 オカリナ ちゃちな顕微鏡
黒曜石のかけら パソコン 三葉虫とアンモナイトの化石
星空の模様の時計 ムックリ エジプトの香水瓶
CD 星座早見 ステゴサウルスのミニチュア骨格標本
机の上の熱いブラック・コーヒー
化粧水 乳液 口紅 白粉 そして鏡がひとつ

かつて私が鏡を持っていなかったころ
私は汚くて狭い部屋とささやかな蔵書と
未分化なセックスと対象のない欲望と
詩以前の言葉を連ねたノートと
「ぼく」という一人称代名詞を持っていた
「ぼく」は星と恐竜とSFが好きで
フランスの詩人とアメリカのロックンローラーと
奇跡のような物語をつむぐマンガ家と小説家を崇拝した
黴臭い図書館から校庭を見下ろし
学校の屋上近くにある天文台で煙草を吸い
苦くてたまらないくせに砂糖抜きのコーヒーを飲み
隣室から母の寝息が聞こえても独り寝がさみしくて
「ぼく」はよく大好きな本を抱いて眠った

はじめて化粧するために鏡を見たとき
「ぼく」の目前には深い空が広がり
「ぼく」の背中には翼があった
明るいオレンジの口紅を刷くと
「ぼく」は微笑んで飛び去った

男たちは少年の心を秘めたまま大人になるのだろうし
女たちは少女の心を隠したまま大人になるのだろうし
「ぼく」の愛したものはこの部屋に保管されたままだけれど
私の「ぼく」は行っちまった
もう 二度と戻ってこないのだ

それで 私はときどき鏡を割りたくなるのです





99年度静岡県芸術祭詩部門毎日新聞社賞受賞作品


自由詩 鏡を割りたくなるわけ Copyright 佐々宝砂 2005-07-16 23:21:50
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